「トーマス・クーン」の版間の差分

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著書の邦訳はいずれも「トーマス」と表記しており、「トマス」の表記について触れるとしても、「トマス」が「通常」というのは無理がある。
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「'''トマス・クーン'''」と表記される場合もある。米国[[オハイオ州]][[シンシナティ|シンシナティ市]]の[[ドイツ系ユダヤ人]]([[ユダヤ系]])移民の家庭に生まれる(もともとの姓は''Cohen''という)。
 
[[ハーバード大学]]で[[物理学]]を専攻し、1943年に[[学(理)|Bachelor of Science(B.S.)]]、1946年に[[修士(理学)|Master of Science(M.S.)]]、1949年に[[Doctor of Philosophy|Doctor of Philosophy(Ph.D.)]]を取得している。在学中は[[物理学者]]の[[ジョン・ヴァン・ヴレック]]の指導を受けた。大学院在学中に物理学史の講義を担当したことをきっかけに、[[科学史]]・[[科学哲学]]研究に転じそして、ハーバード大学で博士号を取得したのち、[[1962年カリフォルニア大学バークレー校]]に発表された主著『科の[[教授]]となり、[[哲革命部]]及び[[歴史学部]]構造』両方で、科学史と科学哲学を教えた。1964年からは[[プリンストン大学]][[教授]](科学がつね・科学哲学)を務め、1969年から1970年累積的なもはアメリカ合衆国科学史学会会長、1979年からなく[[マサチューセッツ工科大学]]の教授も務めている。ハーバード大学断続的に革命的変化すなわち「'''パラダイムシフボス'''」が生じるン大学、そして1994年、肺癌指摘診断され、1996年に死亡した。
 
上述に加え、ハーバード大学(母校)や[[ボストン大学]]でも教鞭を執った経歴がある。
しかし、[[カール・ポパー|ポパー]]、[[ラカトシュ・イムレ|ラカトシュ]]、[[ポール・ファイヤアーベント|ファイアアーベント]]らはパラダイム概念に対して否定的で、クーンと彼らの間にパラダイムをめぐる論争が起きた。特に、1965年7月13日に行われた「批判と知識の成長」と題するシンポジウムにおいて、クーンは徹底的に批判された(後にこのシンポジウムは、「ポパー派によるクーンの袋叩き」と評されている)<ref name=noe89>{{Cite |和書 |author = 野家啓一 | authorlink = 野家啓一|title = 現代思想の冒険者たち24 クーン||date = 1981| pages = 198|publisher = 講談社 |isbn=4-06-265924-7|ref = harv }}</ref>。クーンが目指したものは、科学の研究現場に内在的で堅実な科学史研究であってそれ以外ではないことからすれば、彼らの論争はすれ違いの気配が濃厚であった。
 
クーンの最も有名な業績は、[[1962年]]に発表された主著『科学革命の構造』で、科学の歴史がつねに累積的なものではなく、断続的に革命的変化すなわち「'''パラダイムシフト'''」が生じると指摘した。
また、クーンの'''[[パラダイム]]'''概念は、科学史・科学哲学だけではなく、[[社会科学]]や現代思想、果てはビジネス本にまで登場するなど、広く知られるようになったが、多くの場合、クーン自身が意図した限定的な内実からは外れている。こうした「流行」の要因には、時代([[1960年代]])的なものもあるが、クーン自身の記述の曖昧さも指摘されている。曖昧さについての指摘を受けたこと、概念の安易な拡大利用を嫌ったことから、クーンはその後、パラダイム概念を放棄し、専門母型(disciplinary matrix)という概念に変更した。
 
しかし、[[カール・ポパー|ポパー]]、[[ラカトシュ・イムレ|ラカトシュ]]、[[ポール・ファイヤアーベント|ファイアアーベント]]らはパラダイム概念に対して否定的で、クーンと彼らの間にパラダイムをめぐる論争が起きた。特に、1965年7月13日に行われた「批判と知識の成長」と題するシンポジウムにおいて、クーンは徹底的に批判された(後にこのシンポジウムは、「ポパー派によるクーンの袋叩き」と評されている)<ref name=noe89>{{Cite |和書 |author = 野家啓一 | authorlink = 野家啓一|title = 現代思想の冒険者たち24 クーン||date = 1981| pages = 198|publisher = 講談社 |isbn=4-06-265924-7|ref = harv }}</ref>。クーンが目指したものは、科学の研究現場に内在的で堅実な科学史研究であってそれ以外ではないことからすれば、彼らの論争はすれ違いの気配が濃厚であった。
ハーバード大学、ボストン大学、[[カリフォルニア大学バークレー校]]、[[プリンストン大学]]、[[マサチューセッツ工科大学]]で教鞭を執り、科学史学会会長も務めた。
 
また、クーンの'''[[パラダイム]]'''概念は、科学史・科学哲学だけではなく、[[社会科学]]や現代思想、果てはビジネス本にまで登場するなど、広く知られるようになったが、多くの場合、クーン自身が意図した限定的な内実からは外れている。こうした「流行」の要因には、時代([[1960年代]])的なものもあるが、クーン自身の記述の曖昧さも指摘されている。曖昧さについての指摘を受けたこと、概念の安易な拡大利用を嫌ったことから、クーンはちに、パラダイム概念に加え、より定義放棄明確化専門母型(disciplinary matrix)という概念を発表し、『科学革命の構造』変更も改版に際て加筆している
 
== 著書 ==