「ナルシソ・イエペス」の版間の差分

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|公式サイト =
|著名使用楽器 = [[10ギター]]
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それから世界各地でリサイタルやオーケストラとの共演を行い、日本にも[[1960年]]から[[1996年]]までの間に計17回訪問した。
 
[[1964年]]からは、[[ホセ・ラミレス3世]]と共同で通常より音域の広い[[10ギター]]を開発した。演奏の軽快さが多少犠牲になり、一部では批判もあったが、均一な共鳴をもつ透明度の高い音色を実現し、多くの音楽愛好家に受け入れられた。
 
[[1989年]]4月スペイン芸術院のサン・フェルナンド王立アカデミーの会員に任命された。これは[[サインス・デラマーサ]]、[[アンドレス・セゴビア]]に続く3人目の栄誉である。
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1990年頃に、[[悪性リンパ腫]]に冒されている事が発覚し、[[1993年]]には医師から演奏活動の中止を忠告されたが、その後も演奏活動を続けた。だが、[[1996年]]3月に[[サンタンデール音楽祭]]に出演したのが最後のステージとなり、[[1997年]][[5月3日]]に69歳で死去した。
 
イエペスの信念である「芸術は神のほほえみである」の名のもとに10ギターで世界各地を演奏活動して回ったことにより、日本はもとより全世界で圧倒的な人気を誇り、なお且つ世界各地に及ぼした音楽的影響の高さはひときわ抜きん出ていた。
 
レパートリーの広さ([[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]のリュート組曲における[[リュート|バロック・リュート]]の演奏、[[テレサ・ベルガンサ]]との歌の伴奏、世界各地のオーケーストラとのギターコンチェルトによる共演、[[フェルナンド・ソル]]の練習曲集の演奏、カタルーニャ地方の民謡を集めた曲集の演奏、ラテン系の近代・現代の作曲家の作品の10ギターによる演奏、弟子のモンダンとの二重奏、「トリオ・イエペス」による親子の共演等 )も、来日回数も、他の追随を許さぬものがあり、年間120回にもおよぶ演奏会を30年近く世界各地で行い、今までに録音したレコードの枚数も50枚を超えた(1967年から1989年までは[[ドイツ・グラモフォン]]専属となった)。
 
イエペスは心底からスペインの音楽家であった。その本領は20世紀のスペイン音楽にあった。それは、[[イサーク・アルベニス]]や[[エンリケ・グラナドス]]の音楽(すなわち編曲もの)を除いて、大半がギターのオリジナル作品によって占められていた。また、彼の10ギターによる演奏は、全て、端正で客観的であり、鋭角的であった。これは、イエペスの音楽家としてのポリシーと意欲がもたらしたものであり、ギター音楽の魅力を明らかにしつつ、決してそれに偏することがなく、あくまで音楽に即した確かな表現と造形性が特徴でもあった。さらに、イエペスの技術的な左右の指の運指、また演奏上の音楽的展開の基礎は、全身の筋肉の動きを究明するところから始まって、これまでに無かったギターの新しい演奏技術の進展を見せるものでもあった。
 
日本国内での代表的な弟子として、[[荘村清志]]、[[芳志戸幹雄]]、[[小原聖子]]等がいる。