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== 沿革 ==
アテナイにおいて[[僭主]][[ヒッピアス]]を追放したあと、[[クレイステネス]]が[[紀元前508年]]ころに定めたのが定説とされるが、最初に実施された[[紀元前487年|前487年]]頃に新規導入されたという説も根強い。
 
僭主登場を防止するためというのが教科書的な解釈であるが、近年では貴族たちの激しい抗争を平和的に解決するための手段だったとする説が有力になりつつある。前古典期のアテナイ史は貴族達の集団亡命とクーデターの連続であり、ライバルの一族郎党をアテナイから排除して実権を握った貴族は、国外で力を蓄え復讐に燃えるライバルに再び追い落とされるという権力闘争が跡を絶たなかった。こうした状況に終止符を打つため、一族全員の追放ではなく一人だけを追放に処すという緩やかな方式で、集団亡命とクーデターの憎しみの連鎖を断ち切ろうとしたのが陶片追放だった。