「一〇〇式輸送機」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Amagiri (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
<!-- infobox以外を編集する際はboxの下までスクロールしてください。 -->
{{ Infobox 航空機
| 名称= キ57 一〇〇式輸送機
| 画像= File:Mitsubishi Ki-57.jpg
| キャプション= 一〇〇式輸送機一型(キ57-I)とほぼ同型のMC-20-I
| 用途= [[輸送機]]
| 分類=
| 設計者=
| 製造者= [[三菱重工業]]
| 運用者= [[日本]]([[大日本帝国陸軍|陸軍]])
| 運用者 more=
| 初飛行年月日= 1940年
| 生産数= 507機以上
| 生産開始年月日= 1940年
| 運用開始年月日= 1940年
| 退役年月日=
| 運用状況=退役
20行目:
'''一〇〇式輸送機'''(ひゃくしきゆそうき)は、[[大日本帝国陸軍]]の[[輸送機]]。[[キ番号]](試作名称)は'''キ57'''。略称・呼称は'''一〇〇輸'''、'''MC輸送機'''など。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]のコードネームは'''Topsy'''(トプシー)。開発・製造は[[三菱重工業]]。
 
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])における帝国陸軍の主力輸送機として使用されるとともに、'''[[三菱MC-20|MC-20]]'''(MC20)の名称で[[民間機|民間]][[旅客機]]としても使用された。
 
== 概要 ==
[[File:IJAMitsubishi TypKi-57 4Topsy Fallschirmwrecked.jpg|thumb|right|250px|1944194512月[[レイテ島終戦直後戦い]]・[[レイテ島の戦い#調布飛行場奪還作戦|テ号作戦調布陸軍飛行場]]において、「高千穂ける[[第1航挺隊」こと軍 (日本軍)|第1航空軍]]司令部飛行班([[挺進連陸軍飛行戦#部隊マーク|第2挺進団部隊マーク]]で使用される「日章」)所属の一〇〇輸一型(キ57-I)ないし二型(キ57-II)]]
[[1939年]](昭和14年)、陸軍は三菱に対して[[九七式輸送機]](キ34)の後続である新型輸送機'''キ57'''の開発を指示した。指示の主な内容は'''[[九七式重爆撃機|九七式重爆撃機一型]]'''('''21-I''')21)の胴体部分を改設計し、人員輸送を主目的とするというものだった。[[1940年]](昭和15年、[[神武天皇即位紀元|皇紀]]26'''00'''年)に初飛行した本機の諸性能は、母体である九七重爆の特性をそのまま引き継いでおり、飛行試験でも特に問題はなかったため'''一〇〇式輸送機'''として制式採用された。
[[File:Mitsubishi Ki-57 Topsy wrecked.jpg|thumb|right|250px|1945年、終戦直後の[[調布飛行場]]における[[第1航空軍 (日本軍)|第1航空軍]]司令部飛行班([[陸軍飛行戦隊#部隊マーク|部隊マーク]]「日章」)所属の一〇〇輸一型(キ57-I)ないしニ型(キ57-II)]]
[[1939年]](昭和14年)、陸軍は三菱に対して[[九七式輸送機]](キ34)の後続である新型輸送機'''キ57'''の開発を指示した。指示の主な内容は'''[[九七式重爆撃機|九七式重爆撃機一型]]'''('''キ21-I''')の胴体部分を改設計し、人員輸送を主目的とするというものだった。[[1940年]](昭和15年、[[神武天皇即位紀元|皇紀]]26'''00'''年)に初飛行した本機の諸性能は、母体である九七式重爆の特性をそのまま引き継いでおり、飛行試験でも特に問題はなかったため'''一〇〇式輸送機'''として制式採用された。
 
九七重爆との胴体以外の相違点は主翼が中翼から低翼となり、爆撃機においては被弾時に火災に弱いことから禁忌となっていた外翼内燃料タンク([[インテグラルタンク]])を設け、必要に応じて使用できるようになっていたことなどである。のちに'''一〇〇式輸送機一型'''('''キ57-I''')と呼ばれるこの機体は[[航空用エンジン|エンジン]]に[[ハ5 (エンジン)|ハ5改]](出力850[[馬力|hp]])を装備しており、[[1942年]](昭和17年)2月の[[蘭印作戦#パレンバン空挺作戦|パレンバン空挺作戦]]では[[一式貨物輸送機|ロ式貨物輸送機]]とともに[[挺進連隊|挺進部隊(第1挺進団)]]の[[エアボーン|落下傘降下]]に活躍したほか、同年3月には来亜した[[枢軸国|同盟国軍]][[武官]]団([[ドイツ国防軍]]・[[イタリア軍|イタリア王立軍]]・[[フィンランド軍]]・[[ルーマニア軍]])の[[南方作戦|南方戦線]]視察に使用された。
 
なお、落下傘部隊用には座席をすべて木製ベンチとする、扉を内開きの大型のものとする、指揮官用のぞき窓の設置、客席両側窓に銃座を設置などの改修が施されている。なお、一型(キ57-I)は一部の機体が[[大日本帝国海軍|海軍]]に譲渡されて三菱双発輸送機(L4M1)として試用されている。
 
本機一〇〇輸は、当時の国産ないし[[ライセンス生産]]の陸海軍輸送機としては機体性能も運用性も最良の機体で、特に登場当初は高速爆撃機であった九七重爆の特性を受け継ぎ、最高速度では[[アメリカ軍]]の[[C-47 (航空機)|C-47]]や海軍の[[零式輸送機]]([[ダグラス DC-3|DC-3(C-47)]]のライセンス生産)を凌駕するなど、他国の双発輸送機と比べても遜色のない優秀なものであった。反面、九七重爆のスリムな機体が原型だったためか、他国の同一規模の輸送機と比べると搭載量や輸送人員が少ないことが欠点であった。
[[1942年]](昭和17年)には、エンジンを[[ハ102]](出力1,080hp)に換装し主翼の強化や貨物室の増設を行った'''二型'''('''キ57-II''')が登場し、陸軍の主力輸送機として人員・物資輸送、[[グライダー]]曳航などの任務で[[日本の終戦|終戦]]まで活躍した。二型(キ57-II)において行われた改修はエンジン換装と主翼強化の他は以下のようなものである。
 
[[1942年]](昭和17年)には、エンジンを[[ハ102]](出力1,080hp)に換装し主翼の強化や貨物室の増設を行った'''一〇〇式輸送機二型'''('''キ57-II''')が登場し、陸軍の主力輸送機として人員・物資輸送、[[グライダー]]曳航などの任務で[[日本の終戦|終戦]]まで活躍した。二型(キ57-II)において行われた改修はエンジン換装と主翼強化の他は以下のようなものである。
::・中央翼燃料タンクに排出装置を設置(23号機から)
::・客室窓を利用した非常脱出口の設置(2号機から)
38 ⟶ 39行目:
::・翼前縁とプロペラに防氷装置を設置
::・集合排気管を外側にだけ開口(1号機から)
::・客席の15席への増加(405号機から)。17~1917~19人用の長椅子に変更も可能
::・滑空機の曳航装置の追加(1944年3月試作、同年8月以降標準装備)
 
本機は、当時の国産ないし[[ライセンス生産]]の陸海軍輸送機としては機体性能も運用性も最良の機体で、特に登場当初は高速爆撃機であった九七重爆の特性を受け継ぎ、最高速度では[[アメリカ軍]]の[[C-47 (航空機)|C-47]]や海軍の[[零式輸送機]](ライセンス生産)を凌駕するなど、他国軍の双発輸送機と比べても遜色のない優秀なものであった。反面、九七重爆のスリムな機体が原型だったためか、他国の同一規模の輸送機と比べると搭載量や輸送人員が少ないことが欠点であった。
 
[[1941年]](昭和16年)から[[1945年]](昭和20年)1月まで、三菱において軍用民用合わせて一型101機、二型406機の合計507機が製造された。1945年1月以降、製造は[[日本国際航空工業]]に移管されたが、移管後の生産数は不明とされている<ref>10機製造とする資料あり。</ref>。これは戦前の国産輸送機・[[旅客機]]としては最多であった。
 
=== MC-20 ===
{{main|三菱MC-20}}
軍用輸送機である一〇〇輸は'''[[三菱MC-20|MC-20]]'''(MC20)の名称で民間用[[旅客機]]としても転用・製造され、[[大日本航空]]や[[朝日新聞社|朝日新聞]]はじめ[[航空会社]]・[[新聞社]]などで多数機が使用された。MC-20はその存在を当時から各メディアで喧伝され<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300452_00000&seg_number=007 「国産優秀機 MC二〇」] - [[日本ニュース]]第67号 1941年9月16日(NHKデジタルアーカイブ)</ref>、知名度も高かったことから一〇〇輸は陸軍内部においても「'''MC輸送機'''」と呼称されることが多かった。
 
== 諸元 ==