「荘襄王」の版間の差分

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|説明 =
|王朝 =秦
|在位期間 =[[紀元前251250年|前251250年]] - [[紀元前246247年|前246247年]]
|都城 =
|諱 =嬴異人(えいいじん)<br/>嬴子楚(えいしそ)
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|廟号 =
|生年 =[[紀元前281年|前281年]]
|没年 =[[紀元前246247年|前246247]][[7月6日]]
|父 =[[孝文王 (秦)|孝文王]]
|母 =[[夏姫]]
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===荘襄王即位===
[[紀元前251250年]]、孝文王がわずか1年で没し、子楚が荘襄王、呂不韋が[[丞相]]、義母の華陽夫人が華陽后から華陽太后、実母の夏姫を夏太后、政が太子となった。政が太子となると聞くと趙は驚き、政親子を秦に送り返した。
 
荘襄王は昭襄王・孝文王の政権を引き継ぐ形になり、これまでの功臣をそのまま登用し、[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]・趙を攻め、[[東周]]を滅ぼし、三川郡を設置する。ただし、東周の王族は存続させた。更にかつての[[長平の戦い]]の舞台となった上党の地を完全制圧し、上党郡や太原郡を設置する。
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[[紀元前247年]]に荘襄王即位後の戦争で37もの城を奪われた魏の[[信陵君]]が5ヶ国をまとめ上げて秦を攻め、[[蒙ゴウ|蒙驁]]([[蒙恬]]の祖父)率いる軍を破り[[函谷関]]まで秦を追い詰めた({{仮リンク|河外の戦い|zh|河外之戰}})。しかし、秦が信陵君と魏の[[安釐王]]が不仲だという噂を聞きつけ、信陵君と安釐王を引き離す為の流言を流し、信陵君を政治から引き離す事に成功している。
 
[[紀元前246]]5月丙午、死去。在位はわずか53年であった。
 
==参考文献==
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*[[呂不韋]]
 
{{秦の皇帝|第30代:前251250年 - 前246247年}}
 
{{DEFAULTSORT:そうしようおう}}
[[Category:秦の君主]]
[[Category:紀元前281年生]]
[[Category:紀元前246247年没]]