削除された内容 追加された内容
Satokimu (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{混同|新東京プロレス}}
'''東京プロレス'''(とうきょうプロレス)は、[[アントニオ猪木]]らがかつて所属し、[[1966年]]に[[豊登道春|豊登]]が興した[[プロレス]][[団体]]。
 
== 歴史 ==
=== 豊登の日本プロレス追放 - 新団体旗揚げへの準備 ===
社長であった[[力道山]]の死後の[[日本プロレス]]は、社長に就任した豊登を中心に、[[芳の里淳三]]、[[遠藤幸吉]]、[[吉村道明]]の4人を中心としたいわゆる「[[トロイカ体制]]」を組む形で難局を乗り切る中で、豊登がエースであったものの、その豊登を凌ぐ存在として[[ジャイアント馬場]]が台頭し始めていた。
 
そのような中で、日本プロレスは1965年11月24日に行われた役員会で、豊登の社長解任を決議し1966年1月5日、豊登の日本プロレス社長解任が正式に発表された<ref name="jiken8">[[#jiken8|『日本プロレス事件史 Vol.8』、P44 - P48]]</ref>。この時点では、表向きは持病だった[[尿管結石]]の悪化で辞任という形で発表された。しかし、同年3月21日に正式な解任理由が芳の里淳三日本プロレス社長から発表され、解任理由は豊登の不透明な公金流用であったこと、1965年11月から欠場扱いとしていた理由は、会社の資金を横領し、競馬、競輪などのギャンブルに流用していたことが発覚したため、実際には謹慎処分にしていたと発表した<ref name="jiken8" />。その負債額は(当時の額で)2千万とも、4千万円ともと言われていた。
 
当時の日本最大のプロレス団体日本プロレスを追放された形となった豊登は、新間信雄、[[新間寿|寿]]父子に接触し新団体を旗揚げする意向を表明した。豊登には日プロから数百万円の退職金が発生していたが、ギャンブルに全て使ってしまって金が無く、渋谷の連れ込み宿での旗揚げ表明であった。
 
豊登の新団体旗揚げ表明を受けて、日本プロレスから[[田中忠治]]、[[ラッシャー木村|木村政雄]]、[[マサ斎藤|斎藤昌典]]、[[北沢幹之]]が離脱し豊登の新団体に参加することとなり、2月に静岡県伊東市で合宿を開始した<ref name="jiken8" />。豊登が参加メンバーとして想定していた芳の里<ref>芳の里とは、大相撲時代からの親友であったと言われる。</ref>、[[大木金太郎]]、[[ヒロ・マツダ]]、[[星野勘太郎]]、[[ザ・グレート・カブキ|高千穂明久]]らは日プロに留まったため、手薄な選手層であることは明白であった。
 
そこで豊登は、新団体の目玉として弟分的な存在であった[[アントニオ猪木]]の引き抜きを画策することとなった。
19行目:
猪木は、当時ライバルであった馬場の遠征時の日本プロレスの扱いと比べ、遠征中に日プロからは何も連絡がなく、日本では常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と日本プロレスの自分への待遇に疑問を抱くようになっていた。猪木のハワイ到着時のマスコミの取材も少なく、しかも到着日に宿泊するホテルが予約されていなかったこと<ref>『プロレス醜聞100連発』54Pより。すでに猪木引き抜きの情報が日本プロレスにも察知されており、猪木に対して疑心暗鬼になっていたこともあって、冷遇したと言われる。</ref>もあって、日本プロレスの対応にますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となったのである。
 
日本プロレス側は1966年3月13日に、同年3月9日にハワイ入りしていた馬場に加えて役員の吉村を派遣して猪木の豊登新団体への参加を阻止せんとした。猪木は同年3月19日夕方の[[ホノルル国際空港]]発の航空機で馬場と吉村、沖と一緒に帰国する事を一度は承諾した。結局、猪木は馬場、吉村、沖の帰国当日にハワイへ到着した豊登の説得を受け豊登新団体への参加を決意することとなり、猪木は同年3月21日に日本プロレスに国際電話を入れて日本プロレスを退団する事を表明し同年4月23日に豊登と共に帰国した<ref name="jiken8" />。この一件は俗に「太平洋上の略奪」と呼ばれる。
 
猪木を豊登に奪われる形となった日本プロレスは、これまで表沙汰としなかった一連の豊登の行動を批判する形で除名処分とすることを決定。また、豊登に対しての告訴も検討されたが、もう1人の当事者であった猪木に対しては「若い猪木は豊登に騙されている」として処分が下ることはなかった<ref name="jiken8" />。
 
=== 東京プロレス旗揚げ ===
28行目:
華々しいスタートとは裏腹に、有力な興行基盤を持たない東京プロレスは早々に経営が悪化する形となった。東京プロレスの旗揚げと同時に設立された同団体専門の興行会社『オリエント・プロモーション』を中心に営業活動を行っていたが、地方での営業面では日本プロレスに圧倒されており、全34戦を予定していた東北地方を中心とした旗揚げシリーズはキャンセルが相次ぎ、たった20戦しか行われなかった。また、当時は有力な資金源となっていたテレビ局とも契約出来なかった。
 
当初、経営陣は[[MBSテレビ|毎日放送]]にテレビ中継の話を持ち込み、現場・編成サイドでは一旦合意したが、当時の社長だった[[高橋信三]]の反対により立ち消えになったという<ref>出典:[[鈴木庄一]]『鈴木庄一の日本プロレス史』下巻、第二期黄金時代、昭和39年から昭和58年[[恒文社]]、[[1983年]][[12月]]発売。</ref><ref>髙橋は当時「エログロ排除路線」を打ち出していたため、プロレス中継の製作に慎重な姿勢を取ったという。しかし、後年になると、当時系列関係にあった[[テレビ朝日|NETテレビ]]により日本プロレスの中継番組として開始された[[テレビ朝日|NETテレビ]]の番組「[[ワールドプロレスリング]]のネット受けを実施し同時に関西開催時の製作協力も行った。</ref>。
 
このような最悪の経営状況の中でも、豊登は相変わらず資金を横領の上、ギャンブルに私的に流用し、事実上豊登の個人会社状態となっていたと言われる。猪木の発言によるとこの時点で「ギャンブルによる借金は5千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」と証言しており、また、当時若手選手であった[[永源遙]]も「(いくら現在と貨幣価値が違うとは言え)公務員が月給2万円を越えていた時代に年俸1万円だった」と後に述懐している。旗揚げ後は選手の合宿所も設置されたが、食費は会社持ちではあるもののその米代にも窮していたと言われている。興行収益の無さや豊登による公金の私的流用も相まって窮乏する悪いムードの中、東京プロレスにとって致命的とも言える事件が発生した。
35行目:
東北巡業が惨敗に終わった中、帰京して行われた同年10月26日の板橋区志村高校脇広場大会では4千人の観衆を集めて仮初めの成功を収めたが、そのわずか1か月後の11月26日、同じ板橋区内の元都電板橋駅前広場大会を強引にプランニングしてきた。これは、前回の板橋大会で得た収益も過去の赤字の補填に費やされたことで、再度の成功を夢見て興行日程に組み入れたとも言われている。しかし、寒い11月の野外の試合でもあり、1か月前に近隣で興行していたこともあり観客が集まらなかった。
 
その後、突然大会の中止が集まった観客に告げられた。長く待たされた挙句に何の説明もなく突然の中止を告げられたことで観衆は激怒。リングを破壊した上に寒さへの反動から放火する事態となり、この暴動を収拾するために警官隊が多数動員され鎮圧された。これが世に言われる「板橋事件」である。
 
大会中止の理由として、ギャラを支払わない東京プロレスに対して外国人選手達が出場をボイコットした説、観客の数が余りに少なく、豊登が「これじゃやるだけ無駄だ」と勝手に判断して引き揚げたという説、前述の「オリエント・プロモーション」が猪木らに約束していた未払い金を支払わなかったために引き揚げたという説、などがあるが、この不祥事は一般紙の社会面にも掲載されたことで、東京プロレスは社会的信用を失墜する形となった。
 
=== 猪木派と豊登派の決裂 - 国際プロレスとの業務提携 - 崩壊 ===
同年12月に再び地方シリーズを強行しながらも興行的に惨敗して年内最終戦となった[[東京体育館]]大会(結果、東京プロレスとして最後の興行となった)を終えた猪木は豊登との決別を選択した。資金難の中でも依然として公金横領、ギャンブルへの流用を止めない豊登の無責任極まりない行動に対しての決断であった。猪木らは極秘裏に当時新宿にあったオフィスから必要な荷物を新たに用意した北青山の事務所へ移し豊登派とは別に新会社「東京プロレス株式会社」を設立した。猪木はほぼ同時期に日本プロレスを飛び出して設立された[[国際プロレス]]との業務提携に向けて社長の[[吉原功]]、ヒロ・マツダ(マツダと猪木はアメリカで面識があった)とも参加に向けて連絡を取り合っていた。
 
明けて1967年、猪木は斎藤、木村ら東京プロレスの残党とともに国際プロレスとの合同興行との形で行われた「パイオニア・シリーズ」(旗揚げ興行)に参加したが、この興行に(ポスターやパンフレットに掲載されていた)豊登と田中忠治は参加していなかった。
 
猪木は、合同興行の最中である1月8日に豊登と新間父子を「3千万円の業務上背任横領容疑」で告訴。この行動に激怒した豊登らは1月9日には猪木を「背任容疑」で逆告訴するなど、泥仕合へと発展する。この醜い番外戦もあってか、国際プロレスとの提携も1月末には打ち切られ東京プロレスは事実上崩壊した
 
=== 崩壊後の動向 ===
猪木、豊登、新間父子は複数の債権者への返済に追われる形となった。国際プロレス中継を計画していた[[TBSテレビ|TBS]]は、1967年1月に吉原に対して猪木の国際プロレス入団を要請したものの、同年4月6日に猪木は日本プロレスへ復帰することとなった<ref name="jiken8" /><ref>表向きは、日本プロレスが過去の経緯を水に流して猪木を受け入れた形となっていたが、実際は日本プロレス側が猪木に復帰を懇願したもので、移籍金として1千万円、東京プロレスの借金返済資金としてさらに1千万円、計2千万円が猪木に支払われたという(『プロレスへの遺言状』77 - 78Pより)。</ref>。その際、猪木とともに永源、[[北沢幹之|高崎山三吉]]、[[柴田勝久]]が日本プロレスに復帰したが木村、[[寺西勇]]、[[大剛鉄之助|仙台強]]、[[マンモス鈴木]]、[[大磯武]]、[[竹下民夫]]らは日本プロレスへの復帰は叶わず、国際プロレスへ移籍することとなった。またマサ斎藤は海外遠征を経た後に日本プロレスへ復帰した。
 
一方の豊登は田中忠治とともに国際プロレスへ参加することとなり同年7月に合流した。豊登は選手層が手薄であった国際プロレスの看板選手の1人として活躍したが1970年に引退した。その後、豊登は1972年に猪木が日本プロレスを追放される形で旗揚げした新日本プロレスに「テレビ放映が付くまで」との条件付きで「助っ人」として参戦。NETテレビ(現:[[テレビ朝日]])の放映開始とともに新日本プロレスを去り、以降、プロレス界からフェード・アウトする形となった(詳しくは「[[豊登道春]]」を参照)。
 
旗揚げから40年が経過した2006年に[[菊池孝]]、[[新間寿]]、[[竹内宏介]]の3名がインディー団体の歴史を語るイベント「三者三様 インディー伝説~トークLIVE 40年史~」が開催され、その歴史の起点として東京プロレスについて取り上げられた<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/psychedrums/37148127.html 三者三様トークライブは熱気ムンムンでした!] サイケドラムスのLIFE GOES ON 2006年5月29日</ref>。そのため、東京プロレスを「日本初のインディー団体」とする意見もある。
81行目:
* [[ディーン樋口]]
 
== 脚注、出典関連書籍 ==
* 『プロレス醜聞100連発!!』 著:[[竹内宏介]] [[日本スポーツ出版社]] ISBN 978-4-930943-10-1
{{Reflist}}
* 『プロレスへの遺言状』 著:[[ユセフ・トルコ]] [[河出書房新社]] ISBN 978-4-309-26535-3
 
== 参考書籍 ==
* 『プロレス醜聞100連発!!』 [[竹内宏介]]著 [[日本スポーツ出版社]]刊 ISBN 978-4-930943-10-1
* 『プロレスへの遺言状』 [[ユセフ・トルコ]]著 [[河出書房新社]]刊 ISBN 978-4-309-26535-3
* {{Cite book|和書
|year = 2015
|title = 週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8
|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]
|isbn = 9784583622699
|ref = jiken8}}
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{Martialart-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:とうきようふろれす}}
[[Category:東京プロレス|*]]