「ボードゥアン5世 (エノー伯)」の版間の差分

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その直後、フランス王とフランドル伯の間に紛争が起こり、ボードゥアンは理不尽な状況に置かれた。フランドル伯との同盟関係のため、彼は王の同盟者である[[ブラバント公]][[アンリ1世 (ブラバント公)|アンリ1世]]との戦いを強いられたのである。その後、彼は権利放棄して娘イザベルの利益を保護しなければならなかった。
 
ボードゥアンは、伯父で子供のないリュクサンブール(ルクセンブルク)伯[[ハインリ4世 (ルクセンブルク伯)|ハインリヒ4世]]からナミュール伯領の後継者に指名されていた。この後継指名は1184年に[[マインツ]]で[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]も承認した。1187年にナミュール伯領は侯領となった。ところが1186年、ハインリ4世に女児が誕生した。ハインリ4世は先の合意を反故にして娘エルムザメジにナミュール侯領を継承させようとした。1194年の戦いでハインリ4世は敗北し、彼が存命中はナミュールを維持するものの、死後はボードゥアンが継承することが取り決められた。
 
1191年、フィリップ・ダルザスが死んだため、妹であるマルグリットが伯領を継承、ボードゥアンは妻の共同統治者としてフランドル伯ボードゥアン8世となった。継承は細心の注意が必要だった。なぜならば、フィリップ・ダルザスの未亡人であるマティルド・ド・ポルテュガルは相当な持参金を持って結婚しており、当時フィリップ尊厳王は東方に遠征して不在であった。マティルドは最終的に自分の訴えを取り下げ、フィリップ尊厳王は新しいフランドル伯の忠誠の誓いを受け入れた。