「徳川家康」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎一族縁者: 皇族への血縁に、長男・松平信康、次男・結城秀康、三男・秀忠、二女・督姫を追記
編集の要約なし
498行目:
* 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
 
{{Anchor|死因}}については、[[鯛]]をかや油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた[[天ぷら]]による[[食中毒]]説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは{{refnest|group="注釈"|[[京都|京]]で評判になっている目新しい料理として[[茶屋四郎次郎]]清次が紹介し、[[田中城]](現・[[静岡県]][[藤枝市]])にて供したもので、家康はいたく気に入り、日頃の節制を忘れて大食いに到り、大鯛2枚・[[アマダイ|甘鯛]]3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際は[[から揚げ]]に近い。''cf.'' [[天ぷら#逸話]]。}}、[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]の夕食で、亡くなったのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは[[胃癌]]説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、[[吐血]]と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている<ref>[[富士川遊]]「徳川家康の身體に就いて」(『史学雑誌』18編12号、1907年)</ref><ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より。また、[[謎解き!江戸のススメ]]([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月2日]]放送)でも紹介された。</ref>。しかし、さまざまな説がありいまだにわかっていない
 
後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた[[禁忌]]であるという説明がなされることもあるが、実際には、[[大奥]]の[[侍女]]の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである{{refnest|group="注釈"|江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/%257erakusyotei/sawakai38.html 亭主の寸話38 『てんぷら店の移り変わり』])</ref>}}。