「ヴェルナー・フォン・ブロンベルク」の版間の差分

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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-16082, Tag von Potsdam, Hindenburg, Blomberg, Hitler.jpg|left|thumb|200px|ヒンデンブルク大統領とヒトラー。中央がブロンベルク。1933年3月21日]]
ヒトラーブロンベルクの忠勤に報い、軍の権威や権限の拡大に努めた。1933年4月4日には秘密再軍備に向けた国防会議を創設<ref name="阿部229">[[#阿部|阿部、p.229]]、p.246</ref><ref name="ベネット277-278"/>。さらに同年7月20日には国防軍法を制定して、軍に対しては普通裁判所の司法権は及ばない旨を規定し、また国防法を改正して郷党的規定を廃し、国防軍が唯一の国防の担い手であることを定めた<ref name="阿部246">[[#阿部|阿部、p.246]]</ref><ref name="ベネット278">[[#ベネット|ベネット、p.278]]</ref>。
 
しかしながらナチ党の[[突撃隊]]は、政権獲得時には400万人もの隊員数(うち武装兵士50万人)を有し、第二の軍隊と呼ばれるようになっていた。国防軍から反発を受けており、ブロンベルクは、ヒトラーに明確な裁定を求めた<ref name="トーランド375">[[#トーランド|トーランド上巻、p.375]]</ref>。1934年2月にヒトラーの仲介で国防省においてブロンベルクとレームは一度は協定を結んだが、突撃隊が協定を守る様子はなかった。突撃隊謀反のうわさが流れるとヒトラーはヒンデンブルク大統領やブロンベルクから突撃隊に処置をとることを要求された。ヒトラーは1934年6月30日から7月2日にかけて[[長いナイフの夜]]と呼ばれる粛清を行った<ref name="阿部274">[[#阿部|阿部、p.274]]</ref>。この時、退役将軍の二人[[クルト・フォン・シュライヒャー]]と[[フェルディナント・フォン・ブレドウ]] が殺害された。しかし、ブロンベルクは国防大臣として何の抗議もしなかった。ブロンベルクは7月3日の閣議で軍を代表してヒトラーに賛辞を贈っている<ref name="阿部277">[[#阿部|阿部、p.277]]</ref>。
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その後もユダヤ系ドイツ人の国防軍からの追放に反対する将校団の抵抗を押さえ込んだり、ヒトラーの45歳の誕生日を記念して、国防軍リスト連隊ミュンヘン兵舎を「アドルフ・ヒトラー兵舎」と命名させるなど、ヒトラーに忠実だった。彼はもともと柔和な性格として「ゴムのライオン」と渾名されていたが、やがて「ヒトラー・ユーゲント、クヴェクス」と渾名されるようになった。クヴェクスとは映画『{{仮リンク|ヒトラー青年クヴェックス|de|Hitlerjunge Quex}}』の主人公である[[ヒトラー・ユーゲント]]の名前である<ref name="ベネット274"/>。
 
1935年3月16日にヒトラーはヴェルサイユ条約のドイツ軍備制限条項の破棄を宣言した<ref name="阿部295">[[#阿部|阿部、p.295]]</ref>。旧軍の伝統を本格的に復活させた。「国省」も「ドイツ国'''戦争省''' (Reichskriegsministerium, 英語:Ministry of War)」に改名された(本項においては以後も国防省を使用する)。ヒトラーは、同年彼の忠誠に対して国防三軍の指揮権を委任することで報いた。更に[[1936年]]陸軍元帥に任命、[[1937年]]1月30日には[[黄金ナチ党員バッジ]]を与えた。
 
再軍備にあたってブロンベルクは伝統的な立場にこだわらず、騎兵より戦車の役割を評価していた<ref name="ハート23">[[#ハート|ハート、p.23]]</ref>。戦術面では東プロイセン時代の演習の経験をいかして防御の利点を積極的に認め、攻撃の補助手段として活用した。ハンマーシュタインの攻撃型の原理に修正を加えた<ref name="ハート23"/>。