「シュパンダウ戦犯刑務所」の版間の差分

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刑務所はイギリス管理地区に位置したが、これは連合国防空センター (Alliierte Luftsicherheitszentrale) と並び、[[冷戦]]中に連合国4か国が共同して運営する施設であった。刑務所の運営は一月ごとに交代で行われた。当時、{{illm|連合国管理理事会|de|Alliierter Kontrollrat}}の庁舎に掲げられる国旗で、その時点の運営担当国を知ることができた。
 
1987年に最後の囚人[[ルドルフ・ヘス]]が死去すると、[[ネオナチ]]による[[プロパガンダ]]目的の悪用を防ぐべく、施設は解体、撤去された。撤去は徹底的なもので、残骸は全て粉々にされ、[[北海]]に撒かれた。敷地はイギリス軍兵舎 Smuts Barracks に隣接し、また軍事施設として立ち入り禁止地区であったため、西側連合国軍人向けに、駐車場付きのショッピングセンター、{{illm|ブリタニア・センター・シュパンダウ|de|Britannia Centre Spandau}}が建設された。1994年にイギリス軍がベルリンから撤収すると、様々な企業により商業施設として利用された。2011年には旧ブリタニア・センターの一部の撤去が申請された。ショッピングセンターの駐車場には現在も、1950年代に囚人によって植えられた木々が残っている。
 
== 刑務所施設 ==
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この他には監視塔が9基あり、[[機関銃]]を装備した監視兵が24時間体制で常駐していた。監視兵は総員60名であった。囚人房は十分にあったため、各囚人は一房間を空けて収容されていたが、これは壁を叩いての連絡を防ぐためであった。他の囚人房は、[[刑務所図書館]]や[[礼拝堂]]といった特別な目的のために使用された。各房のサイズは約3 m×2.7 m、高さは4 mであった。
 
刑務所で囚人にとって特別なものは、庭であった。収容人数が少なく、スペースにゆとりがあったため、この場所は当初から囚人たちに割り当てられた。囚人は様々な植物を植えていったが、各人には好みがあった。例えば、[[カール・デーニッツ]]は豆、[[ヴァルター・フンク]]はトマト、[[アルベルト・シュペーア]]は花であった。
 
== 管理 ==
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日課は分単位で規定されていた。6時に起床、身だしなみを整え、独房と廊下の掃除、朝食で1日が始まる。その後に庭仕事か封筒貼り。昼食と続く昼休みの後は、庭仕事を続け、17時ごろに夕食。就寝は22時からであった。
 
毎週月曜日、水曜日、金曜日には髭剃り、また必要に応じて散髪された。
 
囚人は収容当初の数年の内に、一部職員の黙認のもと外部との連絡手段を確立していった。囚人に渡された紙は1枚ごとに記録が取られ、所在を検査されたため、秘密の手紙は、ほとんどがトイレットペーパーに書かれた。
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| 10年
| nowrap="nowrap" |1956年10月1日
| [[元帥 (ドイツ)#海軍元帥|海軍元帥]]、[[ドイツ海軍 (国防軍)|海軍]]総司令官、1945年5月に最後の[[ドイツ国大統領|帝国大統領]]
| nowrap="nowrap" | 1980年12月24日
| 刑期満了
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| 15年
| nowrap="nowrap" | 1954年11月6日
| 1932年から1938年まで[[外務省 (ドイツ)|帝国外務大臣]]、1939年から1941年まで[[ベーメン・メーレン保護領の統治者一覧|ベーメン・メーレン保護領総督]]
| nowrap="nowrap" | 1956年8月14日
| 健康上の理由により早期釈放
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| 20年
| nowrap="nowrap" | 1966年10月1日
| {{illm|帝国兵器・弾薬省|de| Reichsministerium für Bewaffnung und Munition|label=帝国兵器・弾薬軍需大臣}}、帝国首都{{illm|ベルリン建設総監|de|Generalbauinspektor}}
| nowrap="nowrap" | 1981年9月1日
| 刑期満了
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| 終身
| nowrap="nowrap" | 1957年5月16日
| {{illm|帝国経済省|de|Reichswirtschaftsministerium|label=帝国経済大臣}}、[[ドイツ帝国銀行|帝国銀行ライヒスバンク]]総裁
| nowrap="nowrap" | 1960年5月31日
|健康上の理由により早期釈放
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| 刑期中死亡(自殺)
|}
ナチ指導部内のライバル関係や権力闘争に応じて、囚人たちはグループをつくっていた。アルベルト・シュペーアとルドルフ・ヘスはどこにも組みせず、他の囚人から疎まれていた。その理由は、シュペーアは[[ニュルンベルク裁判]]で数々の誤ちを認め、[[ヒトラー]]と決別したため、ヘスは非社交的な人格と、それと分かるほどに精神的に不安定であったためである。海軍元帥であったレーダーとデーニッツは常に行動を共にしていた。1943年にレーダーが海軍総司令官を解任され、その後任がデーニッツとなったことから、不倶戴天の仲と目されていたにもかかわらず、である。フォン・シーラッハとフンクは「無二の仲間 (unzertrennlich)」と評された。フォン・ノイラートは外交官だったということで、皆から好意を持たれ、尊敬されていた。共に過ごした時間は長かったものの、各人の間での和解は少なかった。デーニッツのシュペーアに対する反感は、収容されている間ずっと続いてきたが、釈放を前にした数日間はその頂点に達した。
 
=== アルベルト・シュペーア ===
[[ファイル:Albert-Speer-72-929.jpg|サムネイル|[[アルベルト・シュペーア]]]]
最も熱心な囚人として、自らに厳格に肉体的、精神的作業を課していた。そのためこの日課から数か月おきに自ら2週間の「休暇」を取ることにしていた。書いたものは著作が2つ、回想録の草稿が1つ、日記集が1にものぼった。回想録の執筆を申請したが却下されたため、執筆は秘密裏に行われ、原稿は買収した監視兵や世話人の手で組織的に持ち出された。著書はそれぞれ1969年と1975年に出版され、どちらもベストセラーになった。また、シュペーアは本業だった建築家としても活動した。看守の一人に[[カリフォルニア]]の別荘を設計し、また刑務所の庭を改装した。この他にも「世界旅行」を日課としていた。刑務所の図書館から地理と観光の書籍を取り寄せ、旅行を想像しながら刑務所の庭を周回したものであった。釈放までの「世界旅行」おける移動距離は3万kmにものぼった。
 
原稿の秘密裏の持ち出しに一役買ったのは、[[オランダ]]出身のトニー・プロースト (Toni Proost) であった。もと元々は軍需工場で強制労働に駆り出される身であったが、シュペーアの管轄下にある病院で手当てを受け、そこで看護助手になった人物であった。1947年に保健職員として採用され、シュペーアへの感謝の念から、信書を秘密裏に持ち出したが、その後ソ連は彼にスパイになるよう持ち掛けると、これを拒否して西側連合国に通報し、辞職した。
 
=== エーリヒ・レーダーとカール・デーニッツ ===
[[ファイル:Karl_Dönitz.jpg|サムネイル|[[カール・デーニッツ]]]]
[[ファイル:Erich_Raeder.jpg|左|サムネイル|[[エーリヒ・レーダー]]]]
2人は「[[提督]]様方 (die Admiralität)」と他の囚人から呼ばれ、多くの行動を共にした。体系と秩序を重んじるレーダーは刑務所図書館のった。り、デーニッツは助手を務めた。2人とも他の囚人から距離を置いた。その理由はこうである。デーニッツは、10年間を他人のために捧げてきたため、法的に自分は今でもドイツの[[ドイツ国大統領|国家元首]]である、といったものであった。レーダーでは、軍人でなかった他の囚人の尊大な態度と規律の不足を軽蔑していたためであった。
 
デーニッツはなかでも多くの手紙を元副官に書き送ったが、これは刑務所外の世界で自分の名声を守り続けようとしたためであった。妻には釈放前に、刑務所生活から政界に復帰するための支援方法を指示していた。最後までその希望を持ち続けたものの、実行に移されずに終わった。
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=== ルドルフ・ヘス ===
[[ファイル:Rudolf_Hess_-_extracto.jpg|class=cx-highlight|サムネイル|[[ルドルフ・ヘス]]]]
ルドルフ・ヘスは終身刑に処されたが、健康上の理由で釈放されたレーダー、フンク、ノイラートと違って最期まで釈放されなかった。そのため最も長く刑に服した囚人であった。「シュパンダウで一番の怠け者」として、自分の尊厳にふさわしくないと見なしたあらゆる労働、例えば、草むしりを避けた。7人の囚人の日曜日の[[ミサ]]に全くと言っていいほど参加しなかったのは、ヘスだけであった。[[偏執病]]的[[心気症]]な気質であったため、いつも様々な病気、特に胃痛を訴えた。与えられるあらゆる食物に疑いを持ち、自分の席からもっと遠いところにある皿を取っていたが、これは毒殺を恐れていたためであった。「苦痛」から昼夜問わずうめき声をあげ、叫んでいた。苦痛は本物なのかと、他の囚人や刑務所長の間で何度も議題に上った。レーダー、デーニッツ、シーラッハはヘスの行動を軽蔑の目で見ており、ヘスが叫んでいるのは、本当に痛いからではない、注目を集めたいか、仕事をさぼる口実だろう、と見ていた。シュペーアとフンクには[[心身医学]]の知見があったため、ヘスに歩み寄る姿勢であった。シュペーアがヘスを世話すると、他の囚人からの不平を一身に集めることになった。寒ければ自分のコートを着せてやり、刑務所長や看守が、ベッドから起きて作業に行くよう説得しようとすれば、擁護したものであった。興味深いことに、ヘスが夜中に苦痛のため叫んで、他の囚人の安眠を妨害すると、刑務所医から「鎮静剤」を注射されることがあったが、これはただの注射用蒸留水であった。しかしこの偽薬には効果があり、ヘスは眠りにつくことができた。ヘスはシュペーアに接するときにだけは、精神状態は良好で、教養があり、礼儀正しく、いつも口にする心身医学的な反応は忘れさられたようであった。ヘスが仕事をさぼると、他の者がその分働かなければならないにもかかわらず、病気を理由に厚遇を受けていたため、他の囚人から疎まれ、両提督からは「獄中の貴族様 (Seine inhaftierte Lordschaft, 英語からの独訳)」とあだ名された。
 
ヘスの自慢は、囚人の中で唯一人、20年以上も一切の面会を拒否していることであった。1969年になってやっと、妻と既に成人した息子に面会することを受け入れた。突発性潰瘍のため、刑務所外の病院で手当てを受ける必要があった時である。ヘスが唯一の囚人となると、全刑務所長は全員一致して、ヘスの精神状態を憂慮して、ほとんどの規則を緩和することとした。こうして以前は礼拝堂であった広い房に移ることが許され、いつでもお茶やコーヒーを飲めるように電気湯沸かし器が与えられた。房は施錠されず、洗濯室や図書館に自由に出入りできるようになった。
 
ヘスは服役中に電気コードで首を吊って死去した。しかし家族は死因について、2回の解剖の結果と矛盾する点があるとして、疑いを持っている。これらもろもろは、しまいには[[ナチズム]]への明らかな[[信仰告白]]とされ、ヘスは[[ネオナチ]]に殉教者に祭り上げられることになった。そのためヘスの死去した日には、毎年この種のグループが集会を開催している。