「甘利荘」の版間の差分

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== 甘利荘の立荘と歴史 ==
甘利荘の成立時期は不明であるが、[[平安時代]]後期の[[藤原忠実]]の日記『[[殿暦]]』[[天仁]]2年([[1109年]])10月11日条によれば、同年に高陽院において行われた[[競馬]]に忠実所有の「'''阿万利'''」の鹿毛が出馬している。また、同書天仁2年9月26日条で「甘利」の栗毛が出馬しており、甘利荘は忠実所領の荘園あるいは[[牧]]として成立し、中央への貢馬が行われていたと考えられている。
 
甘利荘に関する確実な初見史料は「平治元年閏五月宝荘厳院領荘注文」『[[東寺百合文書]]』で、宝荘厳院領目録に挙げられている12か所の荘園のうちに見られ、他の東国荘園と同じく繊維製品(白布)が貢上品に挙げられている。
 
平安後期の[[天承]]元年([[1131年]])には、[[常陸国]]から[[源義清 (武田冠者)|源義清]]・[[源清光|清光]]親子が甲斐国[[市河荘]]へ配流される。清光の子孫は甲府盆地の各地へ荘園管理者として進出し、[[甲斐源氏]]の一族となった。清光の子・[[武田信義]]は甲斐源氏の棟梁となり、現在の[[韮崎市]]神山町武田の地に[[居館]]を構えたという。信義の子・[[一条忠頼]]の頃には甘利荘に拠った考えられている
 
信義の子・[[一条忠頼]]の頃には甘利荘に拠り、『[[尊卑分脈]]』によれば、忠頼の子行忠が[[甘利氏]]を称したといわれる。[[江戸時代]]後期に編纂された『[[甲斐国志]]』では、[[韮崎市]]旭町上条北割に所在する大輪寺境内を館跡としているが、境内にあたる大輪寺東遺跡の[[発掘調査]]では戦国期の遺物は見られるが中世前期まで遡る遺構や遺物は見られない。[[治承]]4年([[1180年]])から発生した[[治承・寿永の乱]]ではにおいて甲斐源氏の一族は活躍し、[[伊豆国]]の[[源頼朝]]の武家政権に参加する。『[[吾妻鏡]]』によれば[[元暦]]元年([[1184年]])に一条忠頼は[[鎌倉]]において頼朝に謀殺され、行忠も処刑され甘利荘も没収されたという。
 
その後、甘利荘の在地領主は定かではないが、「武田福寿丸申状」『八坂神社記録』([[紙背文書]])に拠れば、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]初期に没収された[[石和御厨]]の還付を願う[[武田政義]]の子武田福寿丸が、忠頼子孫に甘利荘が還付されたことを先例として挙げている。甲斐一条氏は忠頼死後に[[武田信光]]の子一条信長により継承された。信長は神山町武田に鎮座する[[武田八幡宮]]へ大般若経奉納しており信長のである時信の子孫は戦国時代に甲斐・信濃の国境を防備する[[武川衆]]として土着し配置されているなど盆地北西部との関わりが深く、甘利荘を領有していた可能性が考えられている。
 
[[鎌倉時代]]には本家の宝荘厳院が衰退したため、甲斐源氏の支配を脱していると考えられているが、「文永八年四月二十七日北条時宗下文」『紀伊三浦文書』は鎌倉時代後期に甘利荘が北条得宗家領であったことを示す文書でしており、これによれば幕府執権の[[北条時宗]]は武田三郎入道妙意という人物甘利南の地頭代に任命しており、いる。このことから甘利荘において荘園を分割する[[下地中分]]が行われていたことが確認される。戦国期の文書には「甘利」を関した分割地名が見られる。
 
戦国期の文書には「甘利」を関した分割地名が見られる。地頭代の「武田妙意」については甲斐源氏の一族であると定されているが、人物の特定については一条信長の子義長説をはじめ諸説ある。
 
== 甘利荘と甘利氏 ==