「タラワの戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{Battlebox
| battle_name= タラワの戦い <br /> Battle of Tarawa
| campaign= ギルバート・マーシャル諸島の戦い
|colour_scheme= background:#ffff99;color:#2222cc
| image= [[ファイル:Marines storm Tarawa.jpg|300px]]
| caption= 破壊された日本軍の陣地と上陸した海兵隊
| conflict= [[太平洋戦争]] / [[大東亜戦争]]
| date= [[1943年]]([[昭和]]18年)[[11月21日]]-[[11月23日]]
| place= [[タラワ環礁]]{{仮リンク|ベティオ島|en|Betio}}
| result= 連合軍の勝利
| combatant1= {{JPN1889}}
| combatant2= {{USA1912}}
| commander1= [[柴崎恵次]][[少将]]
| commander2= [[ジュリアン・スミス]]少将
| strength1= 2,600 <br /> 1,000の日本人労働者と<br />1,200の朝鮮人労働者
| strength2= 35,000
| casualties1= 戦死4,713 <br /> 捕虜160
| casualties2= 戦死1,009 <br /> 戦傷2,296
}}
'''タラワの戦い'''({{lang-en|Battle of Tarawa}})は、[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]][[11月21日]]から[[11月23日]]にかけて、[[ギルバート諸島]][[タラワ|タラワ環礁]]{{仮リンク|ベティオ島|en|Betio}}(現在の[[キリバス|キリバス共和国]])で行われた日本軍守備隊と[[アメリカ海兵隊]]との戦闘である。アメリカ軍は[[ガルヴァニック作戦]]('''Operation Galvanic''')の一環として実施した作戦であった。
 
== 背景 ==
=== 連合国側 ===
[[アリューシャン方面の戦い|アリューシャン]]、[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン諸島]]方面で勝利を収めた[[アメリカ海軍|米海軍]]は[[1943年]]の夏頃には中部太平洋への侵攻が可能となった。そのため、1943年の初めから中部太平洋への侵攻作戦を計画していた[[アメリカ統合戦略委員会]]はアメリカ海軍とともに中部太平洋侵攻作戦の準備を始めた<ref name=s52>佐藤 pp52-53</ref>。しかし、南太平洋最高司令官である[[ダグラス・マッカーサー]]は[[ニューギニア]]から[[フィリピン]]に至る[[カートホイール作戦]]の実施を主張し、この計画に反対したため、[[アメリカ陸軍|米陸軍]]とアメリカ海軍で意見が分かれた<ref name=s52/>
 
しかし、最終的に[[アメリカ統合戦略委員会参謀本部]]はカートホイール作戦のみでは日本軍に側面から脅かされると判断し、カートホイール作戦の実施と共に中部太平洋を西(日本の方角)に向かって進撃することを決定し、さらに[[8月21日]]から[[8月24日]]の間には[[カナダ]]の[[ケベック・シティー|ケベック]]で[[アメリカ合衆国ケベック会談]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]、[[フランス]]の四箇国会談し行われ、中部太平洋への侵攻作戦の具体案を決定した。そして、その攻撃の最初の矛先となったのはギルバート諸島の[[マキン島|マキン]]、タラワ、{{仮リンク|アベママ環礁|en|Abemama|label=アベママ}}三島3[[環礁]]であった<ref name=s52/>
 
=== 日本側 ===
[[ファイルFile:USMC-M-Tarawa-11Shibazaki Keiji.jpg|thumb|210px300px|タラワ環礁柴崎恵次少将]]
一方、日本軍は開戦直後にギルバート諸島を攻略したが、マキン環礁にわずかに守備兵を置いたほかは、タラワなどには部隊を駐留させなかった。この脆弱な守備態勢を見直すきっかけとなったのが、[[1942年]](昭和17年)[[8月17日]]、221名の[[米海兵隊|アメリカ海兵隊]]が2隻の[[潜水艦]]に分乗して[[マキン奇襲|マキンに奇襲上陸]]した事件であった。
 
この攻撃は日本軍の戦線を攪乱させるために行われた作戦だが、これによりかえって日本軍にギルバート諸島の戦略的な重要性を気づかせることとなった。日本海軍は[[海軍陸戦隊#特別陸戦隊|横須賀第6特別陸戦隊]]などを送って、[[1943年]](昭和18年)[[2月15日]]にはギルバート方面を担当する第3[[海軍根拠地隊|特別根拠地隊]](横須賀第6特別陸戦隊改編)を新編成し、地上防護施設や航空施設の増強を始めた。
 
特にベティオ島は地下陣地による全島の[[要塞]]化を目指し、陸上には鉄道レールを骨組みにした地下戦闘司令所や、椰子の丸太で作られた半地下式の[[トーチカ]]が建設された<ref name=s66>佐藤 pp66-67</ref>。この半地下式トーチカは直径20cm以上の丸太を2mの幅で2段に重ね、その中間に岩や土を詰め込んだものであり、各トーチカは地下壕で連絡されていた。さらにすべてのトーチカは射線が有機的に連携しており、死角がまったくなかった<ref name=s66/>。要塞化が行われたのは陸上だけでなく、[[海岸]]にも丸太で組んだ防壁が設置され、海中にも丸太と角材を二重にしばりつけた防塞が置かれた<ref name=s66/>。主戦力の佐世保第7特別陸戦隊は、軽戦車なども持った海軍陸戦隊としては精鋭の部隊だった。
 
[[1943年]](昭和18年)[[7月]]にギルバートの防衛指揮官として着任した第3特別根拠地隊司令官[[柴崎恵次]]少将は、島の防御施設を視察して「たとえ、100万の敵をもってしても、この島をぬくことは不可能であろう」と豪語したと言われている<ref>佐藤 p68</ref>
 
[[ファイル:USMC-M-Tarawa-3.jpg|thumb|250px|ベティオ島]]
 
== 両軍の兵力 ==
=== 日本軍(海軍部隊のみ) ===
[[ファイル:USMC-M-Tarawa-11.jpg|thumb|210px|タラワ環礁]]
**第3特別根拠地隊本隊([[柴崎恵次]] 少将)902名
[[ファイル:USMC-M-Tarawa-3.jpg|thumb|250px|ベティオ島]]
**佐世保第7特別陸戦隊 1669名([[菅井武雄]] 中佐)
[[File:8-inch-japanese-gun-betio.jpg|thumb|250px|ベティオ島に配備された九九式八糎高射砲]]
***大隊指揮小隊
**第3特別根拠地隊本隊([[柴崎恵次]] 少将)902名
***小銃中隊
**佐世保第7特別陸戦隊 1669名([[菅井武雄]] [[中佐]]
****1個中隊:指揮小隊
***大隊指揮小隊
****軽機関銃小隊(軽機関銃、軽擲弾筒)
***小銃中隊
****機関銃小隊(重機関銃、重擲弾筒分隊)
****1個中隊:指揮小隊
***砲隊(山砲、歩兵砲)
****[[軽機関銃]]小隊(軽機関銃、軽擲弾筒)
***高射砲隊(7cm野戦高射砲、13mm高角機銃)
****[[機関銃]]小隊(重機関銃、重擲弾筒分隊)
***戦車隊(九十五式軽戦車)
***輸送隊(トラック山砲大発、サイドカー歩兵砲
***[[高射砲]](7cm([[八八式7.5cm野戦高射砲]]13mm[[九九式八糎角機銃射砲]]
**第755航空隊基地員 30名
***[[戦車]]隊([[五式軽戦車]]
**第111[[海軍設営隊|設営隊]] 1247名(主に[[軍属]]。朝鮮出身の労務者を含む。)
**輸送隊(トラック、大発、サイドカー)
**第4建築部タラワ派遣設営班 970名(同上)
**第755航空隊基地員 30名
**第111[[海軍設営隊|設営隊]] 1247名(主に[[軍属]]。朝鮮出身の労務者を含む。)
**第4建築部タラワ派遣設営班 970名(同上)
 
計約4800名<ref name=s56>佐藤 p56</ref>
 
=== アメリカ軍 ===
**中部太平洋部隊:第5艦隊([[レイモンド・スプルーアンス]] 中将)
***第54任務部隊(進攻軍 [[リッチモンド・K・ターナー]] 少将)
***第5水陸両用軍団司令部([[ホランド・スミス]] 少将)
***第53任務部隊(南方攻撃軍 ヒル少将)
****第53.1任務群([[掃陸輸送艦]][[駆逐艦]]
****第53.2任務群([[掃海艇]]
****第53.4任務群([[戦艦]][[重巡洋艦]][[軽巡洋艦]]、駆逐艦)
****第53.5任務群
*****[[第2海兵師団 (アメリカ軍)|第2海兵師団]]([[ジュリアン・スミス]] 少将)
******{{仮リンク|第2海兵 (アメリカ軍)|en|2nd Marine Regiment (United States)|label=第2海兵連隊}}
******{{仮リンク|第6海兵 (アメリカ軍)|en|6th Marine Regiment (United States)|label=第6海兵連隊}}(第5水陸両用軍団予備)
******{{仮リンク|第10海兵 (アメリカ軍)|en|10th Marine Regiment (United States)|label=第10海兵連隊}}(師団砲兵)
******{{仮リンク|第18海兵 (アメリカ軍)|en|18th Marine Regiment (United States)|label=第18海兵連隊}}(師団工兵)
******{{仮リンク|第2戦車大隊 (アメリカ軍)|en|2nd Tank Battalion|label=第2戦車大隊}}
*****{{仮リンク|第2水陸両用大隊 (アメリカ軍)|en|2nd Assault Amphibian Battalion|label=第2水陸両用大隊}}
******第2水陸両用トラクター大隊
****第53.6任務群([[護衛空母]]、駆逐艦)
計約35000名
 
計約35000名<ref name=s56/>
==戦闘経過==
===上陸前===
[[1943年]][[11月10日]]、[[レイモンド・スプルーアンス]]中将指揮のマキン・タラワ侵攻部隊は[[ハワイ]]の[[真珠湾]]を出撃した。[[11月19日]]にタラワとマキンへ同時に事前攻撃が始まり、これより3日間、タラワはアメリカ軍の砲爆撃を受けた。
 
===11月21日= 戦闘経過 ==
=== 上陸前 ===
[[11月21日]]午前4時、戦艦コロラドとメリーランドの火力支援の元、タラワ環礁の外側にいたアメリカ軍の輸送船から上陸第1波である125両の[[LVT]]が発進した。舟艇群は環礁の西側の水路から礁湖への侵入を試みたが、日本軍の西海岸の[[砲台]]が反撃し、上陸部隊は大損害を被ることとなった。
[[1943年]][[11月10日]]、[[レイモンド・スプルーアンス]]中将指揮のマキン・タラワ侵攻部隊は[[ハワイ]]の[[真珠湾]]を出撃した。[[11月19日]]にタラワとマキンへ同時に事前攻撃が始まり、これより3日間、タラワはアメリカ軍の砲爆撃を受けた<ref>佐藤 p57</ref>
 
=== 11月21日 ===
これに対し、アメリカ軍は派遣艦隊の[[旗艦]]である[[戦艦]][[メリーランド (戦艦)|メリーランド]](USS Maryland, BB-46) が[[艦砲射撃]]で反撃し、その[[主砲]]で日本軍の西海岸砲を制圧した。なお、この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こった。
[[File:Coast Guardsmen at Tarawa.jpg|thumb|right|300px|タラワに上陸を試みる海兵隊員たち]]
[[File:Marines Advance on Japanese Pill Boxes, Tarawa, November 1943 (10962107133).jpg|thumb|right|300px|日本軍のトーチカを攻撃する海兵隊員]]
[[11月21日]]午前4時、戦艦コロラドとメリーランドの火力支援の元、タラワ環礁の外側にいたアメリカ軍の[[輸送船]]から上陸第1波である125の[[LVT]](水陸両用トラクター)が発進した。舟艇群は環礁の西側の水路から礁湖への侵入を試みたが、日本軍の西海岸の[[砲台]]が反撃し、上陸部隊は大損害を被ることとなった<ref name=s68>佐藤 pp68-69</ref>。これに対し、米軍は派遣艦隊の[[旗艦]]である[[戦艦]][[メリーランド (戦艦)|メリーランド]](USS Maryland, BB-46) が[[艦砲射撃]]で反撃し、その[[主砲]]で日本軍の西海岸砲を制圧した。なお、この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こった<ref name=s68/>
 
この後、アメリカ軍は島の砲陣地や機銃陣地に対して再び艦載機による攻撃を加え、午前6時20分には戦艦3隻、[[巡洋艦]]5隻が艦砲射撃を開始した<ref name=s68/>。日本軍守備隊はそれぞれの陣地で配置についていたが、艦砲射撃により電話線が修理不可能となるほどの被害を受け、命令がうまく伝わらなくなった。そのため守備隊の各隊は統一的な指揮を失い独立行動をとらざるをえなくなった<ref name=s70>佐藤 pp70-71</ref>
 
アメリカ軍は礁湖内にも[[駆逐艦]]2隻を進出させて海岸線を砲撃した。これに対し、まだ残っていた日本軍の海岸砲が発砲し、1隻に命中弾をあたえた。しかし、この命中弾は不発弾であり、駆逐艦の航行に支障はなかった<ref name=s70/>。そして駆逐艦の掩護を受けながら、再び米軍の第1次上陸部隊は海岸を目指した。米軍は3個大隊の兵力を6波に分け、まず海兵隊員を乗せた第1波から第3波まではLVTで3分間隔で発進し、その後に[[戦車]]や[[野砲]]等の重装備を積んだ第4波以降の舟艇群が続いた。各波の上陸地点は西から第1大隊は赤1区域(Red Beach 1)、第2大隊は赤2区域(Red Beach 2)、第3大隊は赤3区域(Red Beach 3)と分けられ、それぞれ担当する海岸の幅は約360mであった<ref name=s70/>
 
上陸地点の450m手前には[[サンゴ礁|リーフ珊瑚礁]]があった。そのリーフ珊瑚礁に第1波の上陸部隊が近づいた時、日本軍守備隊は砲撃を開始しアメリカ軍に甚大な被害を与えた<ref name=s70/>。舟艇群に対し日本軍は海岸砲と機銃による攻撃を加え、ほとんどのLVT水陸両用車は海岸にたどり着く前に命中弾を受けた。難を逃れたLVTは1ヵ所に集まってリーフ珊瑚礁を乗り越えたが、海岸に辿り着いたLVTも損傷が激しく、それ以上は動けなくなった<ref name=s70/>
そして駆逐艦の掩護を受けながら、再びアメリカ軍の第1次上陸部隊は海岸を目指した。アメリカ軍は3個大隊の兵力を6波に分け、まず海兵隊員を乗せた第1波から第3波まではLVTで3分間隔で発進し、その後に[[戦車]]や[[野砲]]等の重装備を積んだ第4波以降の舟艇群が続いた。各波の上陸地点は西から第1大隊は「赤1区域」、第2大隊は「赤2区域」、第3大隊は「赤3区域」と分けられ、それぞれ担当する海岸の幅は約360mであった。
 
第4波以降の上陸部隊も続々とリーフ珊瑚礁に辿り着いたが、LVTではなく[[LCVP (アメリカ合衆国)|上陸用舟艇]]であったため、リーフ珊瑚礁を乗り越えることができなかった。リーフ珊瑚礁上の水深は60cm~から90cmしかないのだが、上陸用舟艇は最低でも1.2mの水深がないと動くことができなかったからである<ref name=s70/>。そのため第4波以降の上陸部隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みた。しかし、リーフ珊瑚礁の先から海岸までの450mは再び深い海であり、重い装備のため海に沈む者が続出した。更に、そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加えたため、海岸にたどりつけた者はほとんどいなかった<ref name=s72>佐藤 p72</ref>。わずかに海岸にたどり着いた者は奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めた。すでにこの時点で上陸したアメリカ兵約5000名のうちその3分の1は死傷していた<ref name=s72/>
上陸地点の450m手前には[[サンゴ礁|リーフ]]があった。そのリーフに第1波の上陸部隊が近づいた時、日本軍守備隊は砲撃を開始しアメリカ軍に甚大な被害を与えた。舟艇群に対し日本軍は海岸砲と機銃による攻撃を加え、ほとんどのLVT水陸両用車は海岸にたどり着く前に命中弾を受けた。難を逃れたLVTは1ヵ所に集まってリーフを乗り越えたが、海岸に辿り着いたLVTも損傷が激しく、それ以上は動けなくなった。
 
上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官の{{仮リンク|デビット・シャウプ|en|David M. Shoup}}大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請した<ref name=s72/>。要請に基づき、島は再び砲爆撃を受けた。この時の砲爆撃に際して、アメリカ軍は海岸の上陸部隊から日本軍陣地を無線電話で誘導し、命中精度が向上した<ref name=s72/>。同じ頃、[[ジュリアン・スミス]]師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した<ref name=s72/>
第4波以降の上陸部隊も続々とリーフに辿り着いたが、LVTではなく上陸用舟艇であったため、リーフを乗り越えることができなかった。リーフ上の水深は60cm~90cmしかないのだが、上陸用舟艇は最低でも1.2mの水深がないと動くことができなかったからである。そのため第4波以降の上陸部隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みた。しかし、リーフの先から海岸までの450mは再び深い海であり、重い装備のため海に沈む者が続出した。更に、そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加えたため、海岸にたどりつけた者はほとんどいなかった。わずかに海岸にたどり着いた者は奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めた。すでにこの時点で上陸したアメリカ兵約5000名のうちその3分の1は死傷していた。
 
一方、二度目の艦砲射撃により日本軍の死傷者は急増していた。これを見た柴崎少将は戦闘司令所を負傷者の治療所に提供し、自らは[[参謀]]や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移った<ref name=s73>佐藤 pp73-74</ref>。しかし、その防空壕に直撃弾が命中し、柴崎少将は[[戦死]]した<ref name=s73/>
上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官の{{仮リンク|デビット・シャウプ|en|David M. Shoup}}大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請した。要請に基づき、島は再び砲爆撃を受けた。この時の砲爆撃に際して、アメリカ軍は海岸の上陸部隊から日本軍陣地を無線電話で誘導し、命中精度が向上した。同じ頃、[[ジュリアン・スミス]]師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した。
 
司令官を失った日本軍であったが、兵たちの士気は衰えることなく、守備隊はトーチカなどの陣地にこもって抵抗した。これに対しアメリカ軍は[[火炎放射器]]や[[爆薬]]で対抗し、1つ1つのトーチカを潰して廻った。そのためこの日の夕方までにアメリカ軍は赤1区域の西半分の縦深140mと赤2区域赤3区域の境界の桟橋を幅460m、縦深260mにわたって確保することに成功した<ref name=s75>佐藤 p75</ref>
一方、二度目の艦砲射撃により日本軍の死傷者は急増していた。これを見た柴崎少将は戦闘司令所を負傷者の治療所に提供し、自らは[[参謀]]や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移った。しかし、その防空壕に直撃弾が命中し、柴崎少将は[[戦死]]した。
 
アメリカ兵たちはこの日の夜、海岸に身を潜めていたが、日本軍は上陸したアメリカ軍に対して夜襲を行わなかった<ref name=s75/>。日本軍は、夜闇に紛れて破壊されたトーチカに兵員を送り込んで再編成を行い、海岸にあるLVTを奪ってアメリカ兵の背後を確保し、海岸から約600mの所に座礁していた[[輸送船]]「[[斉田丸]]」の残骸に機銃を据え付け、翌朝のアメリカ軍の攻撃に備えた<ref name=s75/>
司令官を失った日本軍であったが、兵たちの士気は衰えることなく、守備隊はトーチカなどの陣地にこもって抵抗した。これに対しアメリカ軍は[[火炎放射器]]や[[爆薬]]で対抗し、1つ1つのトーチカを潰して廻った。そのためこの日の夕方までにアメリカ軍は「赤1区域」の西半分の縦深140mと「赤2区域」と「赤3区域」の境界の桟橋を幅460m、縦深260mにわたって確保することに成功した。
 
またこの日、タラワ島の周辺海域では[[ギルバート沖航空戦|第一次ギルバート沖航空戦]]が発生した。
{{main|ギルバート沖航空戦}}
アメリカ兵たちはこの日の夜、海岸に身を潜めていたが、日本軍は上陸したアメリカ軍に対して夜襲を行わず、夜闇に紛れて破壊されたトーチカに兵員を送り込んで再編成を行い、海岸にあるLVTを奪ってアメリカ兵の背後を確保し、海岸から約600mの所に座礁していた[[輸送船]]「斉田丸」の残骸に機銃を据え付け、翌朝のアメリカ軍の攻撃に備えた。
 
===11月22日===
[[ファイル:Pacific war US Propaganda Leaflet "Where is the Imperial Navy?"(Back).jpg|thumb|210px|日本軍の士気を下げるためにアメリカ軍機により投下された[[伝単]]]]
翌[[11月22日]]午前6時、アメリカ軍の増援部隊が海岸へ向けて進撃を開始した。これに対し、まだ健在であった日本軍の海岸砲や[[迫撃砲]]が砲撃を開始し、「斉田丸」からも機銃攻撃が行われた。この攻撃により、アメリカ軍は再び大損害を被った。特に「斉田丸」からの機銃攻撃は絶大な効果を挙げていた<ref name=s76>佐藤 pp76-77</ref>
 
アメリカ軍は「斉田丸」に対し航空攻撃を行った。まず、[[F6F_(航空機)|F6F戦闘機]]4機が来襲し、[[機銃掃射]]を開始した。しかし、「斉田丸」を沈黙させることはできなかった。
 
続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機が3機来襲した。「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えたが、「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった。この後もさらに「斉田丸」に対する攻撃は続けられ、今度は12機のF6F戦闘機が来襲した。12機の戦闘機は次々に爆弾を投下するものの「斉田丸」に直撃弾を与えられず、ようやく1発だけ命中した。だが、それでも「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった。
 
米軍は「斉田丸」に対し航空攻撃を行った。まず、[[F6F_(航空機)|F6F戦闘機]]4機が来襲し、[[機銃掃射]]を開始した。しかし、「斉田丸」を沈黙させることはできなかった<ref name=s76/>。続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機が3機来襲した。「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えたが、「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった。この後もさらに「斉田丸」に対する攻撃は続けられ、今度は12機のF6F戦闘機が来襲した。12機の戦闘機は次々に爆弾を投下するものの「斉田丸」に直撃弾を与えられず、ようやく1発だけ命中した。だが、それでも「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった<ref name=s76/>。これを見たアメリカ軍は[[工兵]]部隊による決死隊を編成して「斉田丸」に近づき、高性能爆薬を仕掛けた。その高性能爆薬により「斉田丸」は大爆発を起こし、「斉田丸」の日本軍の機銃陣地は沈黙した<ref name=s76/>
 
「斉田丸」を制圧した後、午後3時にアメリカ軍の1個大隊は緑区域(Green beach)と呼称された西海岸に上陸を開始した<ref name=s76/>。この1個大隊は後から上陸した軽戦車中隊とともに島の南岸沿いを進撃した。そして、この日の終わりまでに赤1区域赤2区域赤3区域から上陸したアメリカ軍は南海岸に達し、日本軍の兵力と東西に分断することに成功した<ref name=s76/>
 
=== 11月23日 ===
翌[[11月23日]]朝、マキンの守備隊が玉砕した。タラワではアメリカ軍は最後の1個大隊を緑区域に上陸させた<ref name=s79>佐藤 pp79-81</ref>。これによりアメリカ軍は予定の兵力をすべて投入し、戦闘も収束しつつあったので、スミス師団長は陸上で指揮を執った。もっともこの時点でも、まだ赤1区域などで日本軍守備隊は抵抗していた<ref name=s79/>アメリカ軍の激しい攻撃により守備隊は後退していき、東地区守備隊の生き残り約350名は飛行場の東端陣地に集結したが、そこでもさらに消耗していった<ref name=s79/>。分断された西地区でも守備隊が抵抗を続けていた。
 
そして、この日の夜、日本軍の残存守備隊約110名は最後の突撃を敢行した<ref name=s79/>。突入は3回にわたって行われ、1,2回目は2,30名、3回目の突入は50名で行われた<ref name=s79/>。だが、いずれも同一地点を攻撃したため、アメリカ軍の被害は軽微だった<ref name=s79/>。同じ頃、西地区守備隊約50名も同様に玉砕した<ref name=s79/>
 
この戦闘により、タラワの戦いは終結したのであった。
 
=== 日本軍の救援作戦 ===
[[ファイル:G4M Type 1 Attack Bomber Betty G4M-3s.jpg|thumb|right|300px|[[一式陸上攻撃機]]]]
タラワの戦いの間、アメリカ軍の来襲を知った日本軍は、救援のために以下のような作戦をおこなっていたが、十分な成果を上げることは出来なかった。
 
まず[[連合艦隊]]は、上陸のあった21日に、[[ポンペイ島]]にいた陸軍[[海上機動旅団#甲支隊について|甲支隊]]の派遣を決めた。軽巡3隻(那珂、五十鈴、長良)、駆逐艦2隻(雷、響)、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻(鳥海、鈴谷、熊野、筑摩)、軽巡1隻(能代)、駆逐艦5隻(早波、藤波、初月、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]])からなる邀撃部隊を編成し、26日までに[[マーシャル諸島]]の[[クェゼリン]]に進出させた<ref>[[#第八戦隊日誌(7)]]p.40『(四)十一月下旬ヨリ十二月上旬迄遊撃部隊〔4S(鳥海) 7S(鈴谷熊野)8S(筑摩)2sd(能代32dg(玉波欠))初月4dg(野分舞風)〕ハ「マーシャル」ニ進出、内南洋方面部隊ニ編入セラル』</ref>。しかし、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたために、甲支隊の派遣は中止された<ref name=s78>佐藤 pp78-79</ref>
 
つぎに連合艦隊は[[潜水艦]]9隻をギルバート海域に進出させ、アメリカ海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行った。その結果、24日に[[伊号第一七五潜水艦|伊175潜]]([[田畑直]]艦長)がマキン沖で[[護衛空母]][[リスカム・ベイ (護衛空母)|リスカム・ベイ]](USS Liscome Bay, CVE-56)の撃沈に成功したが、日本軍は引き換えに[[伊号第一九潜水艦|伊19]]など潜水艦6隻を失った。
 
また、マーシャル諸島の[[クェゼリン環礁|ルオット]]から出撃した海軍航空隊による反撃も行われた<ref name=s78/>。21日にはギルバート沖のアメリカ機動部隊を目標とした[[ギルバート諸島沖航空戦]]が展開され、軽空母[[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンデンス]](USS Independence, CV/CVL-22)を大破させた。22日には[[一式陸上攻撃機|陸攻]]9機、[[戦闘機]]39機が発進したが、天候不良のため途中で引き返した<ref name=s78/>。この攻撃隊は陸攻の[[魚雷]]を[[爆弾]]に積み替えて、タラワ上陸部隊の昼間攻撃に再び発進したが、これも天候不良のため途中で引き返すこととなった<ref name=s78/>
 
22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着した。陸攻はアメリカ軍の上陸地点と思われる地点を二航過して爆弾8発を投下し、アメリカ軍は戦死者1名戦傷者8名を出した<ref name=s78/>。しかし、アメリカ軍によればこの爆撃は日本軍陣地にも着弾してしまい、日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明である<ref>佐藤(2000年)、79頁。< name=s78/ref>。
 
== 両軍の損害 ==
[[ファイル:Tank at Tarawa.jpg|thumb|250px|戦闘により破壊された[[九五式軽戦車|95式軽戦車]](アメリカ軍が撮影のために海岸へ移動したもの)]]
[[File:Tarawa beach HD-SN-99-03001.JPEG|thumb|250px|戦闘終結後の海岸]]
戦闘の結果、タラワ島を守備した日本軍は、文字通り全滅した。[[捕虜]]となって生き残った者は、負傷して意識不明の状態で捕えられた者などごく一部だけであった。河津幸英は日本側の死亡率が著しく高い理由を、アメリカ軍が、負傷したりして無抵抗の日本兵・軍属までも皆殺しにしたためであると推定している<ref>河津(2003年)、75頁。</ref>。また、日本兵の中には捕虜になることを避けるため殺した決する者もあった<ref>佐藤(2000年)、80頁。< name=s79/ref>。{{要出典範囲|date=2013年10月|アメリカ軍が日本兵を徹底的に殺害した背景として、日本軍が降伏せずに最後まで抵抗する傾向があったため、掃討戦を十分に行う必要があったからとする見方もある}}。
 
一方、アメリカ軍の人的損害も極めて大きなもので、恐怖のタラワ・マキンと呼ばれるほどであった。本島の戦いおよびマキンの戦いでの苦戦は、アメリカ軍が[[水陸両用作戦]]の改良に力を入れるきっかけとなった。
 
*; 日本軍
**戦死者 4713名
**生存者
***軍人 17名
***内地出身軍属 14名
***朝鮮出身軍属 129名
*アメリカ; 米軍<ref>佐藤(2000年)、81頁。 p81</ref>
**戦死者 1009名
**戦傷者 2296名
 
== タラワの戦いが登場するメディア作品 ==
156 ⟶ 154行目:
* ドキュメンタリー 激戦タラワ~日米将兵の再会([[ヒストリーチャンネル]])
* 偵察写真が語る第二次世界大戦(ヒストリーチャンネル)
*「[[:en:With the Marines at Tarawa|With the Marines at Tarawa]]」 - アメリカ軍の重傷者や波間に漂う遺体、戦死者を海に遺棄する水葬をも含む実戦の情景が初めて米国民に公開され、一時的に志願兵の応募率が低下したという。
 
=== ゲーム ===
163 ⟶ 161行目:
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==