「花森安治」の版間の差分

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東京帝国大学卒業後、[[伊東胡蝶園]](のちのパピリオ<ref>戦後は[[帝人]]や[[アサヒペン]]などの企業に買収されながらも存続していたが、[[1990年]]に[[ツムラ]]により買収されて同社の化粧品部門となり、[[1997年]]にツムラが同部門から撤退したことに伴って清算され、企業そのものが消滅した。</ref>)宣伝部に入社、[[広告]]デザインに携わる。[[1930年代]]末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き文字で顧客に語りかける、その後の『暮しの手帖』を誌面のキーともなる、個性的なスタイルを確立させている。[[太平洋戦争]]に応召するが、疾病により除隊し、その後は敗戦まで[[大政翼賛会]]の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わる。当時の代表的なキャッチコピー「'''欲しがりません 勝つまでは'''」は花森が考案したものと、しばしば言われるがこれは事実ではない。大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が小学生の娘の名前で応募した作品を花森が採用したものである。ただし、この点に関して、花森は一切弁明をしなかった。
 
除隊されたとは言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した、彼は終戦後の[[1946年]]、編集者・画家の[[大橋鎭子]](社長)と共に'''衣研究所'''を設立し、雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして[[1948年]]に、生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『[[暮しの手帖]]』に改題)を創刊する。[[1951年]]には、暮しの手帖社と改称。『暮しの手帖』は生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな[[雑誌]]で、中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に今日まで発行されている。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の2日前まで第一線で編集に当たった。なお『暮しの手帖』の表紙画は、創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まで、全て花森の手によるものである<ref>花森の死後、第2世紀54号から1986年の第2世紀100号まで、表紙画は[[藤城清治]]が担当した。</ref>。
 
[[1949年]]から、[[大日本麦酒]]の会社分割で発足した朝日麦酒(後の[[アサヒビール]]、法人としては現在の[[アサヒグループホールディングス]])広報部の要請で同社の広告クリエイターとして勤務。アサヒビールの[[キャッチコピー]]からデザイン、レイアウトを一手で引き受け、「'''一番うまいアサヒビール'''」や「'''ビールといえば[[吾妻橋 (墨田区)|吾妻橋]]'''<ref>当時のアサヒビール吾妻橋工場(東京都[[墨田区]]。現在は跡地にアサヒビール本社ビル、墨田区役所、[[リバーピア吾妻橋]]が立地)。</ref>」などのキャッチコピーを世に送り出した。