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1066年の[[ノルマン・コンクエスト|ノルマン・コンクェスト]]以後は、[[ノルマン貴族]]が軍事拠点としてイングランドに合計500あまりの城塞を建築した。[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]は[[サクソン貴族]]を追放し、イングランド全土の5分の1を[[王領地]]に、残りを170人あまりのノルマン貴族たちと自らの親族に等分した。各貴族は自らの生活に必要な所領を取り置いた残りを家臣に分け与え、これら合計4000人ほどの陪臣が後に[[ジェントリ]]、[[エスクワイア]]として[[ジェントルマン]]層を形成することになった。農村における経済単位はマナー([[荘園]])であり、その支配者である荘園領主の邸宅は[[マナー・ハウス]]と称される。13世紀に建設された[[ウォリックシャー]]の[[バッズリー・クリントン]]がその代表例に挙げられる。総人口200万人ほどの農民は自らの農地での労働の他に領主直営地での耕作を義務づけられていた。一方で上流貴族の邸宅においてはホールの重要性がしだいに増加し、社交や政治目的(領主裁判など)で使用されるようになった。これは[[イギリス君主一覧|イングランド王]][[ジョン (イングランド王)|ジョン]]の治世に[[ノルマンディー]]における基盤を失ったノルマン貴族が、自らの地位を安定させるために上下関係を誇示するのに好都合なホールを重用したためであるとされる。下級貴族が住むマナー・ハウスにおいてもこうした構造が踏襲されていた。
 
15世紀に[[バラ戦争]]が開始されると、イングランドの貴族は[[ランカスター家]]と[[ヨーク家]]の陣営に分かれて戦闘を繰り広げた。86家存在した貴族は戦後になって29あまりにまで減少したとされる。疲弊した貴族層に変わって[[ナイト]]、ジェントリなどの下級貴族、さらにはその下の[[ヨーマン]]が台頭した。この後イングランドを統治した[[ューダー朝]]において、[[カントリー・ハウス]]が勃興することになる。
 
==現代の利用状況==