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=== 戦国時代から江戸時代 ===
[[画像:Ishidaki.JPG|thumb|250px|[[石抱]]]]
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]において後期までは[[駿河問い]]、[[水責め]]、[[木馬責め]]、[[塩責め]]などのさまざまな拷問が行われたが、[[1742年]]に[[公事方御定書]]が制定されてからは[[笞打]](むちうち)・[[石抱き]]・[[海老責]](えびぜめ)・[[釣責]]の4つが拷問として行われた<ref name="世界大百科事典"/>。その中でも笞打・石抱・海老責は「牢問」、釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、釣責は重い罪状に限って適用された<ref name="世界大百科事典"/>。しかしこれらを多用せずに自白を引き出すことができるかが役人の手腕だったとされる<ref name="世界大百科事典"/>。
 
=== キリシタン弾圧の拷問 ===
同じく江戸時代[[島原の乱]]の原因となった[[松倉勝家]]が領する[[島原藩]]における[[キリシタン]]に対して行われたとされる拷問は、蓑で巻いた信者に火を付けもがき苦しませた'''蓑踊り'''をはじめ、[[硫黄]]を混ぜた熱湯を信者に少量注ぐ、信者を[[水責め|水牢]]に入れて数日間放置、干満のある[[干潟]]の中に立てた[[十字架]]に被害者を逆磔(さかさはりつけ)にするなどさまざまだった。これはキリスト教の棄教を迫るもので、キリシタンが拷問中に転向する旨を表明した場合、そこで拷問から解放された。拷問の結果棄教したキリシタンが数多く存在しているが、逆に棄教しない場合は死ぬまで拷問が続けられた。
 
=== 明治時代 ===
江戸時代が終わって明治初期になっても拷問制度が残置され、[[1870年]](明治3年)の新律公領に杖による拷問が規定され、[[1873年]](明治6年)の改定律例は断罪には自白が必要と定められた<ref name="世界大百科事典">『世界大百科事典』(平凡社)「拷問」の項目</ref>。
 
しかし[[1876年]](明治9年)の太政官布告ではそれが修正されて断罪は証拠によることと定められた<ref name="世界大百科事典"/>。そして[[1879年]](明治12年)の太政官布告によって拷問制度は日本史上初めて公的拷問制度として廃止された<ref name="世界大百科事典"/>。さらに刑法によって警察官による拷問は職権乱用罪の一類型として処罰対象となった(刑法195条)<ref name="世界大百科事典"/>。
 
しかし警察署内の現場では取り調べ警官による拷問事件が断続的に発生した<ref name="世界大百科事典"/>。有名な拷問被害者として作家の[[小林多喜二]]がいる。大戦中の1942年の[[横浜事件]]では雑誌編集者らに対し拷問を与え3名が獄死した。ちなみにこちらの事件で拷問を行った警察官は有罪となった。<ref>なお横浜事件については被告が全員死亡した2005年に横浜事件に対する雑誌編集者らについての再審裁判が行われた。しかし2008年3月、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で[[免訴]]が確定し、元被告の遺族らが望んだ無罪判決は下されなかった</ref>また、1944年に発生した[[首なし事件]]では、警察官が拷問で採炭業者の男性を死亡させたが、[[正木ひろし]]が告発を行い、戦後になって拷問を行った巡査部長に有罪判決が下っている。
 
=== 現代 ===
日本敗戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]統治下でも、警察が拷問による自白を多数強要していたが、[[サンフランシスコ講和条約]]後の[[1952年]](昭和27年)に、それまで行われた逮捕者をもう一度調べ、拷問による自白の者については再審判が行われた。