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魏には度支(たくし)尚書という軍事財政選任の国務長官が置かれた。[[諸葛亮]]の侵攻に苦しめられていた[[曹叡|明帝]]は、司馬懿の弟であった司馬孚をこれに抜擢した。司馬孚は兵員・物資を的確に補充して、兄の戦いを後方から支援した。明帝は「わしは二人の司馬懿を得たぞ」と喜んだという。<ref>「晋書」司馬孚伝</ref>
 
[[249年]]、司馬懿は[[曹爽]]に対して[[クーデター]]を起こしたが、司馬懿に協力する中護軍の[[司馬師]]と[[尚書令]]の司馬孚は、速やかに[[洛陽]]の宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。クーデターは成功し、曹爽は誅殺された([[高平陵の変]])。司馬は[[251年]]2月に[[司空]]となり、7月に[[太尉]]となった。
 
[[253年]]3月、[[呉 (三国)|呉]]の[[諸葛恪]]は大軍を率いて魏に侵攻したが、[[カン丘倹|毌丘倹]]・[[文欽]]は[[合肥]]新城の[[張特]]とともにこれを防いだ。同年7月、司馬孚は20万の兵を率いて東征して合肥新城の包囲を解き、諸葛恪を撤退させた。