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[[ファイル:Karte Mark Brandenburg 1320.png|thumb|300px|1320年のアスカーニエン家断絶までのブランデンブルク辺境伯領]]
{{ブランデンブルクとプロイセンの歴史}}
'''ブランデンブルク辺境伯領'''(ブランデンブルクへんきょうはくりょう、[[ドイツ語]]:Mark/Markgrafschaft Brandenburg)は、[[神聖ローマ帝国]]の[[選帝侯]]の一人であるブランデンブルク辺境伯の所領の領地。現在の[[ブランデンブルク州]]の大部分と[[ベルリン]]、および[[ポーランド]]の一部に相当する。
 
== 歴史 ==
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[[アスカーニエン家]]が[[1320年]]に断絶した後、[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]がブランデンブルク辺境伯領を獲得、以降ヴィッテルスバッハ家の世襲となるも、[[1373年]]に[[ルクセンブルク家]]の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]が[[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]](ルートヴィヒ4世の6男)から辺境伯領を取得し、長男の[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]に与えた。
 
[[1415年]]、[[ホーエンツォレルン家]]の[[ニュルンベルク城伯]]フリードリヒ6世(ブランデンブルク辺境伯としては[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]])が[[神聖ローマ皇帝]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]](カール4世の次男、ヴェンツェルの異母弟)からブランデンブルク選帝侯位を獲得し、ベルリンを居城とした。[[1539年]]には[[ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム2世]]が[[ルーテル教会|ルター派]]に改宗した。ホーエンツォレルン家は[[17世紀]]前半の[[三十年戦争]]の頃から台頭し始め、主に結婚によって領土や勢力獲得し拡大させた。
 
[[1618年]]には[[ヨーハン・ジギスムント]]が婚姻関係によって神聖ローマ帝国の領域外かつポーランドの封土である[[プロシア公領]]を手に入れ、[[同君連合]][[ブランデンブルク=プロイセン]]を形成した。また、[[1648年]]にはヒンターポンメルン ([[:de:Hinterpommern]]) (現在のポーランド領[[西ポモージェ県]])を獲得した。ホーエンツォレルン家は政治的影響力を拡大しようと努め、さらに[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]](大選帝侯)によって、[[デンマーク]]、[[バルト帝国|スウェーデン]]、[[ポーランド王国]]に対する優位を主張しつつ、西部では[[フランス]]と対立することになる。[[北方戦争]]時にはプロシア公領をポーランドの支配下から完全に独立させた。