「ブランデンブルク辺境伯領」の版間の差分

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フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が没すると[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]があとを継いだ。彼は[[スペイン継承戦争]]で神聖ローマ帝国側に付き、その見返りに[[1701年]]、[[ハプスブルク家]]から帝国外の[[プロイセンの王|プロシア公領の王]]([[プロイセン国王|プロイセン王]])としての称号を認めさせ、プロイセン王国が成立した。この結果ブランデンブルク選帝侯の地位はプロイセン王と兼任されることになり、ブランデンブルク辺境伯領はプロイセン王国の一部のように扱われるようになる。ブランデンブルク選帝侯領は[[プロイセン王国]]の成立後も形式上は神聖ローマ帝国の領邦として留まったが、神聖ローマ帝国が正式に解体された[[1806年]]に正式にプロイセン王国領{{仮リンク|ブランデンブルク州 (プロイセン)|en|Province of Brandenburg|label=ブランデンブルク州}}となった。
 
その後ブランデンブルク州は一貫してドイツの中核的な州であったが、[[第二次世界大戦]]後、[[1945年]]に[[オーデル・ナイセ線]]によりを境として、東のポーランド領と西のドイツ領に分割された。
[[1949年]]に成立した[[ドイツ民主共和国]]は、[[1952年]]に州制度を廃止して旧ブランデンブルク州でドイツ側に残っていた部分を、[[コトブス県]]、[[フランクフルト県]]、[[ポツダム県]]に3分割した。