「ベンガル太守」の版間の差分

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[[1717年]]、ムルシド・クリー・ハーンは皇帝ファッルフシヤルより、正式にベンガル太守に任命された。しかし、同年にファッルフシヤルは[[イギリス東インド会社]]に対し、ベンガルにおける[[関税]]の免除特権(会社員の私貿易は含まれない)をあたえる勅令を出し、これはのちに地方政権との間で大きな問題となった<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、pp.61-62</ref>。このとき与えられた免除特権では、イギリス東インド会社は関税なしで自由に物産を輸出入することができ、こうした物産の移動に対するスタッグと呼ばれる自由通関券する権利も与えられていた<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、pp.61-62</ref>。この免除特権は太守の税収の減少を意味し、また自由通関券を発行する権利は会社社員が私貿易の税を免除するのに利用され、以降太守らとの摩擦につながった<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.62</ref>。
 
[[1724年]]、ムガル帝国の宰相[[ミール・カマルッディーン・ハーン|アーサフ・ジャー]](ニザームル・ムルク)が[[デカン]]の[[ハイダラーバード]]で独立し、[[アワド太守]]の[[サアーダト・アリー・ハーン]]も[[アワド]]で独立して王朝を樹立するなど、ムガル帝国の広大な領土の解体は徐々に進んでいった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.253</ref>。
 
[[1727年]][[6月30日]]、ムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、指名を受けていた孫の[[サルファラーズ・ハーン]]が太守位を継承した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。だが、その父で娘婿[[シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン]]はこれに反対し、翌月に太守位を譲らせた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。
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[[1739年]][[8月26日]]、シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンが死ぬと、その息子サルファラーズ・ハーンが新たな太守となった<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。だが、父の副官だった[[アリーヴァルディー・ハーン]]は太守位を狙うようになり、[[1740年]][[3月]]に反旗を翻した。
 
同年[[4月26日]]、サルファラーズ・ハーンとアリーヴァルディー・ハーンの両軍は、ベンガル地方の小村[[ギリヤー]]で激突した([[ギリヤーの戦い]])<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid2.htm Murshidabad 2]</ref>。だが、サルファラーズ・ハーンは武将[[アーラム・チャンド]]裏切られて敗れ、殺されてしまった。その後、アリーヴァルディー・ハーンは、ムガル帝国の皇帝[[ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)|ムハンマド・シャー]]により、新たなベンガル太守に任命された。
 
[[1741年]][[3月]]、太守アリーヴァルディー・ハーンは攻め込んできた隣国[[オリッサ]]に勝ち、その領土を奪った。だが、敗れた[[オリッサ太守]]の[[ルスタム・ジャング]]はこれに対し、[[マラーター同盟]]の[[ボーンスレー家 (ナーグプル)|ボーンスレー家]]に援助を求めた。
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だが、イギリスはシラージュ・ウッダウラの使者を追い返して、その要求を無視してこれらを続行したばかりか、クリシュナ・ダースの引き渡しも拒否した。同年[[5月]]、シラージュ・ウッダウラは敵対者である従兄弟[[シャウカト・ジャング]]の討伐のため進軍中だったが、その道中にこのイギリスの返答を聞き激怒し、イギリス人をベンガルから追い出すことを決定した。
 
同年[[6月]]、[[シラージュ・ウッダウラ]]はフランスの支持を受けてカルカッタを攻め、ウィリアム要塞を包囲し、[[6月19日]]に占領した。その夜にイギリス兵捕虜146名がウィリアム要塞内の「ブラックホール」と名づけられた小さな牢獄に収容され、結果123名が窒息死する事件が起こった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.270</ref>。これは、シラージュ・ウッダウラの部下がウィリアム要塞やこの牢獄を知らなかったから起ったことであり、必ずしも計画して行われたものではないが、イギリス人は「[[ブラックホール事件]]」、「ブラックホールの悲劇」として語り継いだ。その後、シラージュ・ウッダウラはイギリスの工場を破壊しモスクを建て、カルカッタをアリーナガルと改名した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref>。
 
さらに、同年[[10月]]半ば、シラージュ・ウッダウラは勢いに乗じ,従兄弟シャウカト・ジャングの軍を戦闘で破り殺害した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref>。シラージュ・ウッダウラは一連の勝利でその威信を高めたが、従来にも増してさらに傲慢になり、宮廷ではその打倒の陰謀が企てられた。彼らはシラージュ・ウッダウラから軍総司令官[[ミール・ジャアファル]]へと太守を代えるため、イギリスと結んで計画を進め<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.84</ref><ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.64</ref>。
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イギリスは最初は間接統治を行い、ベンガルとビハール、オリッサにはインド人の代理ディーワーンを配置して収祖権を行使した<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。その理由は、またベンガルという不安定な政治にかかわることで、貿易活動で生み出される巨額の利益を失いことを恐れたからであった<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.</ref>。だが、徴税業務を行う太守の役人への不信感、そして新たな戦争を行うため莫大な資金を必要とした<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.82</ref>。
 
そのため、[[1772年]][[5月14日]]にベンガル知事[[ウォーレン・ヘースティングス]]はディーワーニーを受諾し、自ら徴税業務を行うことにし、同時に行政・司法も直接統治に移行されることとなった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.44</ref><ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.82</ref>。ここにベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガルの植民地化は決定した。またこのとき、代替わりの度に減額されていた太守への内費は160万ルピーへと固定された<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。
 
[[1793年]][[9月10日]]、ベンガル太守が保持していたベンガル、ビハール、オリッサの名目上の統治権([[ニザーマト]])がイギリスに接収された<ref>[http://www.boloji.com/index.cfm?md=Mobile&sd=PoemArticle&PoemArticleID=82 Zafar's Poetry: Rebellion and Pain]</ref>。これにより、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、完全にイギリスの年金生活者と化した<ref>[http://www.boloji.com/index.cfm?md=Mobile&sd=PoemArticle&PoemArticleID=82 Zafar's Poetry: Rebellion and Pain]</ref>。
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その後、[[1858年]]に[[インド大反乱]]でムガル帝国が滅亡したのちも、名目的ながらもベンガル太守は存続していた。
 
[[1880年]]11月、太守[[マンスール・アリー・ハーン]]は退位する際<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid13.htm Murshidabad 13]</ref>、ベンガル太守の名称を放棄しなければならなかった<ref>[http://www.boloji.com/index.cfm?md=Mobile&sd=PoemArticle&PoemArticleID=82 Zafar's Poetry: Rebellion and Pain]</ref>。これは彼が浪費でイギリスに莫大な借金をしており、
それを帳消しにするためでもあった<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid13.htm Murshidabad 13]</ref>。なお、この際にイギリスからの年額160万ルピーの年金は廃止され、宝石など財産も処分しなければならなかった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274</ref>。
 
[[1882年]]2月、マンスール・アリー・ハーンの息子で家長なっていた[[ハサン・アリー・ミールザー・ハーン]]はベンガル太守に代わる称号として、ムルシダーバード太守の称号を採用した<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>。
その後、[[1891年]][[3月21日]]にこの称号はイギリスにも認められた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>。
 
[[1947年]][[8月15日]]、[[インド・パキスタン分離独立]]の際、ムルシダーバード区域は[[西パキスタン]]に割り当てられ、パキスタンの旗が太守の宮殿[[ハザールダウリー宮殿]]に掲げられ<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>た。だが、2日後の[[8月17日|17日]]にインドはパキスタンとムルシダーバードとカルナーを交換し、ムルシダーバード区域はインドに併合され、同時にインドの国旗が掲げられた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid16.htm Murshidabad 16]</ref>。
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==脚注==
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==参考文献==