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'''美作三浦氏'''(みまさかのみうらし)は、[[美作国]]に栄えた[[武家]]の一つ。で、[[本姓]]は[[平氏]]。[[家系]]は[[坂東八平氏]]のひとつ[[三浦氏]]の庶流で[[杉本氏]]の流れを汲む。[[鎌倉幕府]]有力[[御家人]][[三浦義澄]]の弟[[佐原義連]]の血筋で義連-[[横須賀時連]] - [[杉本宗明]]と続き、宗明の次男の[[三浦貞宗]]が[[15世紀]]初頭に[[高田城 (美作国)|高田城]]を築城したのが始まりであると言われている。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると、美作三浦氏は「滅亡」と「復興」を繰り返す[[戦国大名]]となる。まず、[[出雲国|出雲]]の[[尼子晴久]]の侵攻をたびたび受けたが、[[三浦貞久]]はこれを何度も撃退していた。これに対して晴久は、三浦一族である大河原氏に養子入りしていた[[三浦貞尚]]と縁戚関係を結び等して、美作三浦氏を支配下に置いていき[[1548年]]には、貞久が病死したと共に所領安堵を通じてこれを支配下に置いた。貞久の子・[[三浦貞勝]]は旧臣をかき集めて高田城の奪回に成功し、美作三浦氏を再興したとされるがこれを示す当時の文書は殆どない所か、記されているのは一部のみでありそれも後年編纂されたものである。
尼子氏滅亡後、貞勝の弟・[[三浦貞広]]と貞久の弟・[[三浦貞盛]]が、[[三村家親]]の死に乗じて高田城を奪回し、三浦氏を再興すさせる。しかし[[尼子氏|尼子]]の残党であった[[山中幸盛]]と手を結んだため、[[毛利元就]]の侵攻を受けて滅亡するした。しかし貞広の執念は凄まじく、[[1570年]]に再び高田城を奪回して三浦氏をまたしても再興する。ださせたが、再び[[毛利氏]]の侵攻を受けて遂に美作三浦氏は滅亡した。
美作の支配権は天文から永禄にかけて尼子氏がほぼ握っており、尼子氏滅亡から尼子再興にかけて尼子寄りの姿勢を崩すことは無かったので、実質的な支配下にあった豪族と言っても過言ではない。
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