削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
10行目:
{{Quotation|十三日、壬辰、(中略)又甲斐国源氏并北条殿父子赴駿河国、今日暮兮止宿大石駅云々、戌刻、駿河目代以長田入道之計、廻富士野、来襲之由有其告、仍相遭途中、可遂合戦之旨群議、武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光等、越'''富士北麓若彦路'''、爰加藤太光員・同藤次景廉、石橋合戦以後、逃去于甲斐国方、而今相具此人々、到駿州云々、|『吾妻鏡』}}
 
『吾妻鏡』に拠れば、治承4年4月、[[後白河法皇]]皇子・[[以仁王]]が平家一族追討を諸国の源氏に呼びかけ、[[治承・寿永の乱]]が発生する。同年8月には[[伊豆国]]で[[源頼朝]]が挙兵し、甲斐源氏の一族も同時期に挙兵している。『吾妻鏡』では、頼朝は9月20日に甲斐源氏の一族に対し[[黄瀬川]]([[静岡県]][[沼津市]])へ参陣命令を下し、「若彦路」が登場する10月13日を挟んで、10月18日に黄瀬川で頼朝と参会し、平家勢との[[富士川の戦い]]が発生したとしている。一方で、甲斐源氏の一族はこの段階では頼朝の意向に従わず独自の判断で行動していた点が指摘され<ref>秋山(1989)</ref>、頼朝の行程からも無理がある点が指摘される<ref>秋山(1989)</ref>。
 
『吾妻鏡』治承4年10月13日条では、同日朝に[[武田信義]]ら甲斐源氏の一族と[[北条時政]]・[[北条義時|義時]]は駿河国へ向かい、暮れ方に大石駅に宿している。さらに駿河[[目代]]の軍勢が富士野を廻って襲来すると、「富士北麓若彦路」を越えたとされている。「大石駅」は山梨県[[南都留郡]][[富士河口湖町]]大石に比定する説が主流となっている<ref>『角川日本地名大辞典』、『山梨県の地名』、『山梨県史 通史編2 中世』、海老沼(2011)</ref>。富士河口湖町大石は[[河口湖]]北岸に所在し、西は本栖方面、東は御坂路に近い。