「マイソール王国」の版間の差分

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[[1610年]]、ヴィジャヤナガル王[[ヴェンカタ2世]]の治世、[[ラージャ・オデヤ1世]]はヴィジャヤナガル王国からマイソール王国の独立を宣言して、首都を[[マイソール]]からその近郊の[[シュリーランガパトナ]]に遷都した。
 
[[18世紀]]後半、王国のムスリム軍人[[ハイダル・アリー]]とその息子[[ティプー・スルターン]]が政権を握り、王権は傀儡化した。また、彼ら2人が主導した[[マイソール戦争]]はおよそ30年続いたが、結果的に敗れ、マイソール王国は[[イギリス]]に従属する[[藩王国]]となった。
 
[[イギリス領インド帝国]]の支配下で間接支配のもと、藩王家は[[インド]]独立までこの地域を治めていた。その間、名君[[クリシュナ・ラージャ4世]]の統治により、藩王国は近代国家並みに繁栄した。
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=== 独立初期の歴史 ===
[[Image:Kanthirava.jpg|thumb|right|200px|[[ナラサー・ラージャ1世]]]]
[[ナラサー・ラージャ1世]]の治世、マイソール王国は同じようにヴィジャヤナガル王国から独立した[[マドゥライ・ナーヤカ朝]]や[[ケラディ・ナーヤカ朝]]といった[[ナーヤカ朝]]などと争い、その領土の征服に成功している。また、ナラサー・ラージャ1世は首都シュリーランガパッタナに城壁、貨幣鋳造所、火薬庫を建造する一方、[[カーヴェーリ川]]からの用水路を複数作り、周辺地域の農業開発を進めた。
 
だが、[[17世紀]]、[[デカン地方]]の[[ビジャープル王国]]がヴィジャヤナガル王国など南方諸国を攻撃し、[[1639年]][[1月]]にマイソール王国の首都シュリーランガパトナはビジャープル王国に包囲された<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.36</ref>。
 
[[1649年]]、主家であったヴィジャヤナガル王国がビジャープル王国に攻め滅ぼされると、ナラサー・ラージャ1世はその最後の王[[シュリーランガ3世]]を支援している。のちにシュリーランガ3世がマイソール王国に亡命してきた際も、王国は亡命を受け入れている。
 
しかし、その従兄弟[[ドッダ・デーヴァ・ラージャ]]の治世、ケラディ・ナーヤカ朝の大軍が首都シュリーランガパッタナを攻撃したが、マイソール王国は撃退している。のち、ケラディ・ナーヤカ朝には貢納を命じている。
 
=== マイソール王国の中央集権化 ===
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だが、[[1777年]][[1月8日]]にマイソール側が[[ダーラヴァーダ]]付近の会戦でマラーター軍に勝利するなど、マラーター側は分が悪かった<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.42</ref>。そのうえ、[[1778年]][[3月]]に[[第一次マラーター戦争]]中にイギリスが前宰相[[ラグナート・ラーオ]]に援軍を送ると、ナーナー・ファドナヴィースは兵を引き返した<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.204 </ref>。
 
その一方、[[1774年]]にマイソール王国はケーララ地方の{{仮リンク|[[コーチン王国|en|Kingdom of Cochin}}]]とトラヴァンコール王国に家臣として貢ぐように勧め、[[1776年]][[8月]]までにコーチン王国の北部を占領した。さらに、[[1779年]]3月にマイソール王国は[[チトラドゥルガ・ナーヤカ朝]]を、[[5月27日]]に[[カダパ]]の[[ナワーブ]]を滅ぼし、更なる領土を獲得した<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.204 </ref><ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.42</ref>。このように、マイソール王国の領土は[[1770年]]代を通して拡大した。
 
===第二次マイソール戦争とハイダル・アリーの死===