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=== 日本の貨幣学の歴史 ===
[[File:Wadogin.jpg|thumb|right|180px|和同開珎銀銭]]
日本では貨幣学は[[古銭]]の収集や研究としての意味合いが比較的強い。日本において古銭の歴史は古く、[[中国]]の[[古文銭]]にその期限を辿る事ができる。[[621年]]当時[[唐]]の時代であった中国の[[李淵|高祖]]によって[[青銅]]を使用して[[鋳造]]され、やがてそれは[[遣唐使]]によって日本に伝わることとなる。[[708年]]に日本で初めて鋳造されたとされる[[和同開珎]]が日本における事実上最初の古銭の始まりとなった。以来、和同開珎を始めとする[[皇朝十二銭]]が[[平安時代]]にかけて政府によって造られるが、その後は中国との[[日宋貿易]]を経て、[[宋銭]]が、後には[[日明貿易|勘合貿易]]で[[永楽通宝]]などの[[明銭]]が大量に輸入され、[[渡来銭]]が貨幣として流通した。それに伴い、日本では独自の貨幣鋳造は行われることがなくなった。[[後醍醐天皇]]が新貨幣鋳造を計画をしたが、[[建武の新政|建武政権]]崩壊で水泡に帰した。また、中世には、国家による貨幣鋳造が行われなくなった代わりに、私に貨幣を鋳造する者が多く出た。それらは、真銭を型に鋳型を造り、真銭より質の悪い銅を原料に大量に鋳造する。これらの貨幣を[[私鋳銭]]([[模鋳銭]])と呼ぶ。これら私鋳銭は、銭影も不鮮明で、素材も劣悪なため、市場では[[鐚銭]](びたせん)と呼ばれて嫌われた。しかし、中世に発展した貨幣経済に対する市場に流通する貨幣は少なく、これら私鋳銭の量は時代を経るごとに多くなる。市場を安定化するために、地方政権である[[戦国大名]]はたびたび[[撰銭令]]を出して私鋳銭も通貨として流通させようとしたり、[[甲州金]]などの地方に限定された通貨を鋳造したが、成果は上がらなかった。
 
[[File:Gold_koban_050918_163404.jpg|thumb|right|200px|[[慶長小判#武蔵墨書小判|武蔵墨書小判]]]]