「日本美術史」の版間の差分

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「美術」という用語は、[[1873年]](明治6年)、日本政府が[[ウィーン万国博覧会]]へ参加するに当たり、出品分類についてドイツ語の Kunstgewerbe および Bildende Kunst の訳語として「美術」を採用したのが初出とされる(山本五郎『意匠説』:全文は近代デジタルライブラリ所収<ref> {{NDLDC|854088}}</ref>)。すなわち「墺国維納府博覧会出品心得」の第二ケ条(展覧会品ハ左ノ二十六類ニ別ツ)第二十二区に「美術(西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ)(後略)」と記される<ref>青木茂,酒井忠康校注『美術』岩波書店, 1989, p.403-405 所収。同書中、青木茂、北澤憲昭の解題に山本(明治23年)を引用している。)</ref>。あるいは[[西周 (啓蒙家)]]が[[1872年]](1878年説もあり)『美妙学説』で英語の[[ファインアート]](fine arts)の訳語として採用した(「哲学ノ一種ニ美妙学ト云アリ、是所謂美術(ハインアート)ト相通シテ(後略)」とある)<ref>西周著「美妙学説」(西周全集/大久保利謙編著.第1巻,宗高書房 p.477-492所収)</ref>もっとも、この当時の「美術」には詩や音楽なども含まれ、現代日本語の「芸術」に近い語義であった。「美術」という単語自体が明治時代案出の訳語であり、西洋の概念を日本に当てはめたものであった以上、「日本美術」あるいは「日本美術史」という概念もそれ以前の時代には存在しなかった。「[[美術館]]」「[[美術家]]」「[[美術史]]」などの語も当然明治時代以降に使用されるようになったものである。「美術館」という名称は[[1877年]](明治10年)に[[東京]]・[[上野]]で開催された第1回[[内国勧業博覧会]]の陳列館の名称として使用されたのが初出である<ref>東京国立博物館の歴史6.内国勧業博覧会 殖産興業と博物館 http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=149</ref>。[[1889年]](明治22年)に開校した東京美術学校(現・[[東京芸術大学]]美術学部)では「美学及び美術史」が開講され<ref>『改正官立公立及ビ私立諸学校規則』(近代デジタルライブラリー所収)p.10 全文:{{NDLDC|812660/10}}</ref>、この頃から「美術史」の語は現代と同様の意味で使用されている。[[1900年]](明治33年)には日本初の美術史本と目される『稿本日本帝国美術略史』が刊行された(近代デジタルライブラリーに全文あり<ref>{{NDLDC|849674}}</ref>)。
 
=== 日本美術史の扱う範囲 ===
[[日本列島]]の地域で制作・享受された美術をその範囲とすると考えるのが一般的である。主に[[北海道]]に住み、特有の文化をもつ[[アイヌ]]の人々の美術や、現代の[[沖縄県]]に当たる[[琉球]]の美術については、いわゆる日本美術史とは別の文脈で論じられることが<!---一般的で?--->ある。もっとも、20世紀以降の美術については、作者がもっぱら海外で制作していたり、国境を越えて幅広く活動していることが多く、上記の考え方は必ずしも妥当しない。