「シク王国」の版間の差分

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|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|変遷1 = 成立
|変遷年月日1 = [[1801年]]
|変遷2 = [[イギリス領インド帝国|英領インド]]へ併合
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'''シク王国'''(シクおうこく、[[1801年]] - [[1849年]])は、[[パンジャーブ地方]]など[[インド]]北西部を支配した[[シク教]]の王朝。
 
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== 歴史 ==
=== 成立に至るまで ===
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また、ランジート・シングは領土の拡大にも力を入れ、即位後まもなくサトレジ川以西の諸ミスルを配下に治めることに成功した。彼と対立していたサトレジ川以東のシク首長はイギリスに援助を求め、[[1809年]][[4月25日]]にランジート・シングはイギリスにサトレジ川を越えることを禁じる不可侵条約[[アムリトサル条約]]を結ばされた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.283</ref>。
 
1802年にランジート・シングは聖地アムリトサルを奪還したのをはじめ、[[1809年]]には[[ジャンムー]]を、[[1810年]][[ワズィーラーバード]]を、[[1812年]]にインダス川流域のアトックを、[[1818年]][[ムルターン]]を、[[1819年]][[カシミール]]を、[[1821年]]には[[ラーワルピンディー]]を、1834年にはペシャーワル征服して版図とした。
 
これらの征服活動はランジート・シングの治世を通して行われ、その版図はパンジャーブを越え、北西インド一帯にまで及んだ。征服活動で獲得した領土にはムスリムが多く、シク王国の宗教人口はムスリムが70%、シク教徒が17%、ヒンドゥー教徒が13%となっていた。
 
ランジート・シングの宮廷には非常に優秀な人材がそろっていたという。彼はシク教徒だけでなくヒンドゥーやムスリムも平等に登用し、大臣や指揮官にはヒンドゥーやムスリムも少なくなかった。彼の右腕たる重要な宰相はムスリムの[[ファキール・アズィーズッディーン]]であり、財務大臣はヒンドゥーの[[ディーワーン・ディーナ・ナート]]であった<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.27-28</ref><ref>Hügel, Baron (1845) 2000. Travels in Kashmir and the Panjab, containing a Particular Account of the Government and Character of the Sikhs, tr. Major T.B. Jervis. rpt, Delhi: Low Price Publications</ref>。
 
=== シク王国の後継者争い ===
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=== シク戦争と王国の領土併合 ===
[[File:Bataille de Sobraon.jpg|thumb|[[ソブラーオンの戦い]]([[第一次シク戦争]])]]
カールサーは愛国的で勇敢であったが、全く統制のとれていない軍隊であった<ref>チョプラ『インド史』、p.171</ref>。その結果、1809年にランジート・シングと不可侵条約を結んだイギリスはそれが忠実に守られていたにもかかわらず、シク王国の広大な領土に目を向けるようになった。
 
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*[[ランジート・シング]](在位:1801年 - 1839年)
*[[カラク・シング]](在位:1839年)
*[[ナウ・ニハール・シング]] (在位:1839年 - 1840年)
*[[チャーンド・カウル]] (摂政、在位:1840年 - 1841年)
*[[シェール・シング]] (在位:1841年 - 1843年)