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'''杜 畿'''(と き、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての政治家。[[字]]は'''伯侯'''。[[京兆郡]]杜陵県([[陝西省]][[西安市]])の人。子は[[杜恕]]・杜理・杜寛。孫は[[杜預]]。[[傅玄]]の『傅子』によると、[[前漢]]の[[杜延年]]の子孫だという。[[魏 (三国)|魏]]に仕え、郡[[太守]]として功績を挙げた。
 
== 経歴 ==
=== 曹操に仕える ===
幼少のころに父が亡くなり、以後継母に苛められて育ったが、その継母に対して実母の様に尽くしたことで、非常な孝行者として評判を得た。
 
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その後、杜畿は[[荀イク|荀彧]]の推薦があったため<ref>『傳子』によると、ある時、[[侍中]]の耿紀に会いに許昌へ行き、彼の家で一晩中話し合った。耿紀の家は荀彧の家と棟続きで隣接していたため、図らずもその話の内容を聞いた荀彧は、杜畿の才略に惚れ込み、自ら会見したという。</ref>、[[曹操]]に仕えた。曹操はまず杜畿を自分の司直([[司空]]司直)にした。さらにそのあとで護羌校尉とし、[[西寧市|西平]]太守に任命した上で、節を持たせ西域へ派遣した。
 
=== 河東太守として ===
[[206年]]<ref>『三国志』魏志「武帝紀」</ref>、曹操が[[河北]]の袁家をほぼ平定し終えた後、[[并州]]において[[高幹]]が大規模な反乱を起こした。曹操は荀彧に「関西の将軍どもは自分の兵力をかさに着ている。張晟は兵力を持ち、荊州の[[劉表]]とも連携しておる。また、河東郡の衛固・范先はそれらの勢力を頼みとし、恐らく予に従わず高幹に呼応し反乱するに違いない。王邑<ref>河東太守、当時は朝廷に召し出されていた</ref>に代わって河東を鎮めることの出来る人物はおらぬか」と訊ねた。これに対し、荀彧が杜畿で十分だと即答したので、曹操は杜畿を太守として河東へ送ることにした。
 
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杜畿の統治は16年間に及び、天下第一の治績を挙げたと賞賛された。
 
=== 中央に召還 ===
[[220年]]正月、曹操が亡くなり[[曹丕]]が魏王になると、杜畿は中央に召し返され尚書となり、[[関内侯]]に封ぜられた。
 
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その後、曹丕が[[呉 (三国)|呉]]に[[親征]]すると尚書僕射に採り立てられ、留守中の政務を執り仕切った。[[222年]]7月、[[冀州]]が[[蝗]]の被害に遭った際、官倉を開いて救済する時の使者になっている。
 
曹丕が[[許|許昌]]に行幸したとき、杜畿はまた留守役を命じられた。曹丕は杜畿に命令し、天子が乗る楼つきの船を建造させた<ref>『三国志』魏志「文帝紀」[[黄初]]5年(224年)秋7月に曹丕は許昌に行幸し、8月には水軍を作り[[寿春]]に行幸した記事がある。</ref>。杜畿は船を作り上げ、陶河にて[[諸葛誕]]らと試走を行ったが、そのときの強風で船が転覆してしまい亡くなった。62歳だった<ref>[[孫盛]]の『魏氏春秋』。なお20年前、杜畿は司命からの迎えの童子に延命を願い、話を秘匿することを条件にその願いを叶えられたが、うっかりその話をしゃべってしまったため、その日のうちに亡くなったといわれる。</ref>。[[太僕]]を追贈され、戴侯と[[諡]]された。
 
後を継いだ子の杜恕は功績を挙げ、建威将軍・[[幽州]][[刺史]]・使持節[[烏桓校尉]]にまで昇ったが、郡太守としての力量は杜畿に及ばなかったという。その弟の杜理は若い頃から才能があり、杜畿に目をかけられていたが、早くに亡くなった(『杜氏新書』)。
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[[Category:西安出身の人物]]
[[Category:京兆杜氏|き]]
[[Category:生没年不詳]]