「トーマス・ニューコメン」の版間の差分

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トマス・ニューコメンは、イングランド南西部の[[デヴォン]]州[[ダートマス]]で生まれ、1664年2月24日
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1752年以前のイングランドでは、年の開始を3月25日とする習慣であったため、トマスの誕生年を1663年と表記する場合もある。
ここでは、現在の表し方で示す。
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父はエライアス(Elias)、母はサラ(Sarah)で、一家は金物商(ironmonger)を営んでおり、トマスは 5 人兄弟姉妹の 3 番目(次男)であった。
 
1678年頃から[[エクセター]](Exeter)へ金物商の徒弟奉公に出て、1685年頃には、ダートマスへ帰って家業の金物商となっていた
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当時の"ironmonger"の用語は、小さい金属製品の小売業だけでなく、原料としての鉄の交易を行う国内商人にも使われていた。
ニューコメン自身、年間25トン近くの鉄を購入した記録が残っている([[#Rolt|Rolt & Allen(1997)]] p.34.)。
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金物商であったニューコメンが、どのようにしてこの機関の着想を得たのか、正確には分からない
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ニューコメンがピストンの使用を思いついたきっかけについて、当時王立協会の書記をしていた [[ロバート・フック]] と手紙のやりとりをして、その中でパパンの蒸気機関の情報をフックから知らされた、との話がある。
しかし、それを肯定する資料も否定する資料も見つかっていない([[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.32.)。
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確認されている最初の成功した機関は、1712年に[[スタッフォードシャー]](Staffordshire)州の[[ダドリー (イングランド)|ダッドリー]]城(Dudrey Castle)近くのコウニーグリー(Cowneygree)炭鉱
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[[ウルヴァーハンプトン]](Wolverhampton)近郊の炭鉱とする資料もあるが、同じものと考えられている([[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.32.)。
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その機関は、シリンダの直径 21 in (533 mm)、長さ7 ft 10 in (2.39 m)、毎分 12 行程で動作し、1 行程あたり 10 ガロン(45.5リットル)の水を 51 ヤード(46.6 m)深さの坑道からくみ上げた。
約 5.5 HP 相当であった
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10 数年後の 1725 年には揚水量は半減していたが、なおも動作していた記録が残っている([[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.32.)
10 数年後の 1725 年には揚水量は半減していたが、なおも動作していた記録が残っている。
</ref>。
 
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ニューコメン自身による機関建造は、1720 年のホィール・フォーチュンの機関が最後となった。
ニューコメンは、ビジネスでロンドンに滞在する日が多くなっていたが、ロンドンでのパートナーで友人のエドワード・ワーリン
<ref group="注釈">エドワード・ワーリンも「所有者団」の構成員に名が入っていた。</ref>
の家で2週間病床に伏し、1729 年 8 月 5 日に死去した。
彼は非国教徒が埋葬されている北ロンドンのバンヒル([[:en:Bunhill Fields|Bunhill]])墓地に、8 月 8 日に埋葬された。
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ニューコメン協会は 1922 年より機関誌 ''Transactions of the Newcomen Society'' を発行し、その後アメリカなどにも支部(合衆国ニューコメン協会)が設立された。
 
=== 注 ===
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== ニューコメンの蒸気機関 ==
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; シリンダとピストンの使用: パパンの機関はボイラとシリンダが一体であり、シリンダを直接加熱するため、動作を反復することが困難である。セイヴァリの機関はシリンダとピストンがなく、蒸気が揚水に接触して出し入れしていた。ニューコメン機関はピストンとシリンダを持ち、分離したボイラからの蒸気(と大気の圧力)でピストンを駆動した。当時のポンプなどで使われていたシリンダの直径はせいぜい 7 インチ程度であり、直径 20インチを越えるシリンダの製作は至難の業であった。ニューコメンらは、砂やグリスを使って内面を研磨した真鍮鋳物のシリンダを用い、ピストンとの隙間を埋めるために、ピストンの周囲に皮ひもや麻繊維(オーカム)を巻いて、さらに、ピストンの上に水を張ることにより空気の進入を防いだ<ref>[[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.33.</ref>。
; 水噴射による凝縮: 当初の試作段階でニューコメンらは、シリンダの側面を取り巻くようにに鉛製のジャケットを巡らして、そこに冷水を流してシリンダ中の蒸気を冷却していた。その場合は蒸気の凝縮速度は遅く、機関の動作は極めてゆっくりしたものになっていた。実験中のある時、突然ピストンが急に下方へ引かれて鎖を引きちぎり、シリンダの底とボイラの蓋を破壊してしまった。その事故の原因を調べてみると、シリンダ壁の鋳物欠陥を補修して埋めていたハンダ(またはフラックス)が溶け、その穴から冷水がシリンダ内へ噴き出して蒸気が急速に凝縮し、ピストンがすばやく下方へ動かされたことが分かった。この発見がもとになって、シリンダの底に冷水の噴射管を取り付け、蒸気を冷水の噴射で直接凝縮する方法に変更されたとされている<ref>[[#Rolt|Rolt & Allen(1997)]] p.40.</ref>。
; スニフティング弁 (漏らし弁): 蒸気を凝縮して凝縮水だけを取り除きながら繰り返していると、蒸気や冷水と共に持ち込まれる空気がシリンダ内に溜まって濃縮され、やがて機関は動かなくなる。ニューコメンらは試行錯誤するうちにこのことに気づいて、対策を考えていた。シリンダへ蒸気を入れる行程の間、凝縮水を排水管(education pipe)から排出するが、毎行程の後で数秒間だけ蒸気と空気をシリンダから噴き出すことで、空気の濃縮を防ぐことができる。排水管の先を U 字形に曲げて出口に逆止弁をつけて水槽中へ入れ、そこから空気の泡が出ることから、空気が除去されていることが分かる。この弁は、動作時に発する音から "スニフティング弁(snifting valve;漏らし弁)"と呼ばれた<ref>([[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.41.)。</ref> <ref group="注釈">排水管とは別の管にスニフティング弁を取り付けたものもあったようである。</ref>。
; 自動運転機構: 初期には、"plugman" と呼ばれた運転者が手動で弁操作を行っていたとされるが、そのうち、弁操作を自動的に行うよう変更された<ref group="注釈">弁操作は大切だが退屈な仕事であり、当初は年少者が "plugman" を担当していた。この役に当たっていたハンフリー・ポッター(Humphrey Potter)少年が、この仕事から「逃れて遊ぶために」、頭上で動くビームの上下運動を用いて、蒸気と冷水の二つの弁を開閉する方法を考えついた。ビームから紐を垂らして、留め金と組み合わせてこれを実現し、彼はこの仕掛けを "scoggan" と呼んだ。"scogging" とは北部地方の言葉で「仕事をサボる」ことを意味するとのこと。ただし、この話の真偽は確認されていない([[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.41.)。</ref>。この自動運転機構は、ヘンリー・バイトン(Henry Beighton)による1717年のニューカッスル・アポン・タイン(Newcastle-upon-Tyne)機関で大いに改良された。ビームから制御棒を吊るし、タペット・脱進機機構を用いて、弁を開閉するようになった<ref>[[#Smiles|Smiles(1865)]] p.66.</ref>(上図の描画では、この機構を省略している)。
; ボイラ: ボイラは当時使われていた醸造用の銅製ボイラであり、給水のための固定配管、1 対のゲージ管を用いた水面位置検出器、パパンの発明による安全弁などが追加された<ref>[[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.35.</ref>。
; 冷却水の補給: ビームの別の位置に補助ポンプ棒Mを取り付け、補助ポンプで貯水槽 L に水を補給していた。
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ニューコメン機関についても、イングランド各地で稼動していた機関の寸法や性能を調査し、また自らもオースソープの自宅近くに実験用模型機関を建造するなどして実験し、機関の寸法と出力の関係、最適な寸法比等を系統的に調べ、その結果を詳細な表にまとめた
<ref>[[#Dickinson|Dickinson(1939)]] p.61.</ref> <ref>[[#Farey|Farey(1827)]] pp.155-172.</ref>。
[[ファイル:NewcomenSteamEngineBySmeaton1775formFarey.jpg|thumb|right|500px|スミートンによるニューコメン機関、チェイス・ウォーター 1775]]
 
彼はそれをもとに、1772年に[[ノーサンバーランド]](Northumberland)州の[[ニューカッスル]]近郊のロング・ベントン(Long Benton)炭鉱に巨大な機関を建造し、1775年にコーンウォール州チェイス・ウォーター(Chase Water)鉱山に更に巨大な機関を建造した。
後者の機関を図に示す<ref>[[#Farey|Farey(1827)]] p.172.</ref>。
[[ファイル:NewcomenSteamEngineBySmeaton1775formFarey.jpg|thumb|right|500px|スミートンによるニューコメン機関、チェイス・ウォーター 1775]]
 
この機関は、性能および大きさの点で最大のニューコメン機関であり、シリンダ径 72 in (1.83 m)、行程長 9 ft (2.74 m)で、毎分 9 行程で動作した。
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スミートンをはじめ、多くの発明家や科学者がニューコメン機関を改良し建造したが、ジェームズ・ワットが1769年に分離凝縮器の改良を行うまで、原理的な変更は行われず、基本的な部分は当初のニューコメンのアイデアのまま 3/4 世紀間使われ続けた。
 
=== 注 ===
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book|洋書
|author=L. T. C. Rolt and J. S. Allen
|translator =中西重康(私信による)
|year=1997
|title=The Steam Engine of Thomas Newcomen
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== 関連項目 ==
* [[ド・パパン]]
* [[トマス・セイヴァリ]]
* [[ジェームズ・ワット]]
* [[蒸気機関]]