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→‎初期仏教: 「shiensho.png」および「12nidanas.png」の除去。
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また、主に[[大乗仏教]]で用いられる、その至高性・完全性をより強調した、かしこまった表現としては、'''無上正覚'''(むじょう-しょうがく、{{lang-sa-short|anuttara-samyak-sambodhi}}, '''アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ''')<ref>(anuttarāṃ-samyak-sambodhiṃ)とも記述される。サンスクリットの原意では「最も優れた-正しい-知識」、「最も勝った-完全な-理解」と言った意味である。</ref>、'''無上正等正覚'''(むじょう-しょうとうしょうがく)、'''無上正等覚'''(むじょう-しょうとうがく)、'''無上等正覚'''(むじょう-とうしょうがく)、'''無上菩提'''(むじょう-ぼだい)、あるいは漢字音訳で、'''阿耨多羅三藐三菩提'''(あのくたら-さんみゃくさんぼだい)といった表現もある<ref name=daijisen />。
 
文字通り、生死の迷い等、あらゆる[[煩悩]]を取り払い(漏尽)、[[ (仏教)|苦]]を滅し(苦滅)、一切を平等に正しく観ずることができた境地を指す<ref name=daijisen />。他の宗教でも見られる通俗的な表現を用いれば、これは「'''他我の区別が消失した、至福の境地'''」ということになるが、一時的な生理的変調ではなく、[[戒律]]と[[瞑想]]・自己分析を通じて、理知的かつ習慣的・持続的なものとしてこれを達成していこうとするところに、仏教の特徴がある。
 
== 歴史 ==
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この段階に達すると、煩悩・苦の汚れに邪魔されることなく、一切をありのままに正しく観ずることができるようになるので、この境地を「正覚」(正等正覚)と呼ぶ<ref name=daijisen />。
 
初期の仏教教団([[僧伽]])においては、[[釈迦]]の指導によって、[[五比丘]]を始めとする数多くの修行者がこの境地に至り<ref>[[パーリ語経典]]律蔵</ref>、釈迦が[[入滅]]後の第一回[[結集]]においては、500人の[[阿羅漢]]([[五百羅漢]])が集結するに至った。
 
=== 部派仏教 ===
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=== 大乗仏教 ===
[[大乗仏教]]においては、[[般若経]]・[[龍樹]]・[[中観派]]等によって、認識対象・認識内容の「[[空 (仏教)|空]]性」「無自性」が強調され、[[二諦|世俗諦]](分別智)ではなく、[[勝義諦|真諦]](無分別智)としての正覚を目指す本来の仏教、釈迦への回帰が主張される一方、各種の大乗仏教経典によって具現化・広大化された諸仏や、複雑化・詳細化された縁起観・自然観などを通じた観想によって、正覚に至ろうとする各種の行法も発達した。
 
なお、初期仏教の頃から、[[瞑想]]の導入として、自身や他者の身体の不浄さや死後の腐乱([[九相図]])を観想したり([[不浄観]])、慈・悲・喜・捨の[[四梵住]]([[四無量心]])を想起したり、世界の構成要素(十遍)を観想したり、[[仏]]・[[三宝]]等を観想したり([[十念]]・[[十随念]])といったような、その時々で瞑想に入るのに妨げとなっている囚われごとに応じて、様々な観想を行う行法が存在していた([[上座部仏教]]で言うところの「[[四十業処]]」)ので、大乗仏教の様々な行法も、その変化・発展形態だと言うことができる。
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== 関連項目 ==
*[[解脱]]
 
{{Buddhism2}}