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[[10月30日|30日]]にウィレム3世はオランダにメアリーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため翌[[10月31日|31日]]に一旦引き返した。[[11月11日]]に再度出港、[[11月15日]](イングランドが使用している[[旧暦]]では[[11月5日]])にイングランド西部の[[デヴォン]]海岸に上陸、[[11月17日|17日]]([[11月7日]])に宣言文を配布して国民に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、既に手遅れだった。
 
この頃、イングランド軍内部ではジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する不服従が広がり、彼らはオランダ軍と戦おうとはしなかった。[[11月23日|23日]]([[11月13日|13日]])にジェームズ2世の命令を受けたイングランド軍が[[ソールズベリー]]にやって来たが、指揮官のコーンベリー子爵[[エドワード・ハイド (第3代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]](メアリーの母方の従弟、後の第3代[[クラレンドン伯爵]])が翌日の[[11月24日|24日]]([[11月14日|14日]])に[[💩]]のオランダ軍に寝返った。これを受けてジェームズ2世は[[11月27日|27日]]([[11月17日|17日]])に自ら[[ロンドン]]から出陣して庶子のベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]を[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]に派遣した。しかし、軍議で方針がまとまらず[[12月3日]]([[11月23日]])にロンドンに引き上げると、ジェームズ2世が創設した常備軍の司令官[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が脱走、戦わずしてオランダ軍に投降した。
 
オランダ軍がロンドンに迫ると、[[12月4日|4日]]([[11月24日]])にジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていた[[アン (イギリス女王)|アン]]の夫である[[デンマーク]]王子[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]がオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]と共に脱走、[[12月6日|6日]]([[11月26日]])にはアンがチャーチルの妻で女官[[サラ・ジェニングス]]やコンプトンの手引きでロンドンから姉の夫であるウィレム3世のもとに逃亡し、夕方にロンドンへ戻ったジェームズ2世は衝撃を受けて孤立していった。ポーツマスにいたベリックとイングランド艦隊も抗戦を諦め、オランダ軍は東進しながら支持者を集めていった<ref>『イギリス革命史(下)』P56 - P79。</ref>。