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'''リボー'''(''{{lang|it|Ribot}}''、[[1952年]] - [[1972年]])は1950年代中ごろに活躍した[[イタリア]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]。20世紀を代表する名馬の1頭で、20世紀のヨーロッパ記録となる16戦16勝無敗、[[凱旋門賞]]連覇の成績を持つ。引退後は[[種牡馬]]としても成功した。
 
平地競馬があまり盛んでないイタリアで、20世紀イタリアのスポーツ選手第4位という高い評価を得ている。
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=== 4歳時 ===
4歳になってもリボーは圧勝を重ねた。初戦のグィリオヴェニノ賞を4馬身、2戦目のヴィチュオーネ賞を12馬身、3戦目のガルバニャーテ賞を8馬身、イタリア最大のレース[[ミラノ大賞典]]を8馬身と圧勝するが、イギリスでリボーの評価が低かった為、リボー陣営はイギリス遠征を決断し[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]へ出走、これを当時のレース最高着馬身差の5馬身の快勝をするとイギリスでの評価を覆した。この後、2度目の凱旋門賞を迎える。各国のクラシックホース7頭(他にワシントンDCインターナショナル勝ち馬マスターボーイング、翌年の凱旋門賞馬オロソ等もいた)、初めてアメリカからの遠征馬([[ワシントンDCインターナショナル]]勝ち馬フィッシャーマン、[[ベルモントステークス]]2着馬キャリアボーイの2頭)を迎えた高レベルな凱旋門賞となったが、デビュー以来の15連勝を重ねたリボーは1.6倍の圧倒的1番人気に押されていた。レースは前年の再現で、3番手を追走し、直線で先頭に立つと一度もムチが打たれることなく<ref>騎手のカミッチによると、これは「リボーは戦ってきた相手が弱い」という批判に対抗するためのパフォーマンスであった。</ref>独走態勢に入り圧勝。着差は公式で2着に6馬身、実際に付けた着差は少なくとも8馬身半差と言われている<ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?id=SQIdAAAAIBAJ&sjid=xYoEAAAAIBAJ&pg=3492,712463&dq=ribot+talgo&hl=en |title=American horses fail in Europe |publisher=[[Sarasota Journal]] |page=13 |date=8 October 1956 |accessdate=2016-04-09}}</ref>。そのレースぶりは「発射台から打ち出されたミサイル」と形容された。
 
この後、2度目の凱旋門賞を迎える。各国のクラシックホース7頭(他にワシントンDCインターナショナル勝ち馬マスターボーイング、翌年の凱旋門賞馬オロソ等もいた)、初めてアメリカからの遠征馬([[ワシントンDCインターナショナル]]勝ち馬フィッシャーマン、[[ベルモントステークス]]2着馬キャリアボーイの2頭)を迎えた高レベルな凱旋門賞となったが、デビュー以来の15連勝を重ねたリボーは1.6倍の圧倒的1番人気に押されていた。レースは前年の再現で、3番手を追走し、直線で先頭に立つと一度もムチが打たれることなく<ref>騎手のカミッチによると、これは「リボーは戦ってきた相手が弱い」という批判に対抗するためのパフォーマンスであった。</ref>独走態勢に入り圧勝。着差は公式で2着に6馬身とされた。なお、決勝線上の写真は明らかに6馬身より大きく、実際に付けた着差は8馬身半差ともされる<ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?id=SQIdAAAAIBAJ&sjid=xYoEAAAAIBAJ&pg=3492,712463&dq=ribot+talgo&hl=en |title=American horses fail in Europe |publisher=[[Sarasota Journal]] |page=13 |date=8 October 1956 |accessdate=2016-04-09}}</ref>。そのレースぶりは「発射台から打ち出されたミサイル」と形容された。
リボーは20世紀欧州における最多連勝記録16を残し引退した。16のレースで記録した2着馬との合計着差は100馬身に迫るものだった。子馬の頃「イル・ピッコロ」(ちびっこ)と呼ばれた小柄な体格は引退時の計測には体高162.6cm、胸囲188cm、官囲20.3cmにまで成長し、賢そうな顔と、力強い後ろ脚が特徴的な競走馬になっていた。
 
=== 戦績 ===
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種牡馬となったリボーは最初イギリスの[[ダービー伯爵]]のもとで供用され、翌年から2年間イタリアのオルジアタ牧場で供用された。その後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のダービーダンファームへ5年間のリース契約ながら135万ドルという史上最高価格が提示されアメリカに渡った。アメリカに渡ってからのリボーは環境の変化と加齢のためか、若いころの人懐っこい性格は姿を潜め、非常に扱い辛い性格へとなっていった。そのため、5年後にイタリアに戻る予定が、渡航の危険性から保険の引き受け手が見つからなかった。ダービーダンファームは5年間のリース期間延長と引き替えに追加で135万ドルを支払った。
 
産駒は世界中に拡散したが、おもに[[ヨーロッパ]]で走った産駒が活躍した。種牡馬としての能力も桁違いで、イギリスでのトータルアーニングインデックスは10近く、テシオもう一頭の代表馬[[ネアルコ]]を幾つかの指標で上回っている(総産駒数、ステークス勝ち馬の数や率では若干負けている)イギリスでのトータルアーニングインデックスは10近くに達かし、ている。

後継種牡馬はネアルコにさほど大きく差を開け広がれてしまなかった。それでもが、一時は[[トムロルフ]]が孫の代に[[アレッジド]](Alleged。リボー以来の凱旋門賞連覇を達成)を出し、グロースターク、ヒズマジェスティ兄弟も種牡馬として活躍した。現在21世紀以降衰退傾向が強く、[[ヒズマジェスティ]]の子孫を中心に少数が北米に残るに過ぎない。
 
* 1963、1967 - 1968年のイギリス[[リーディングサイアー]]
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== 身体・精神面の特徴 ==
本来の性格は概ね気難しい馬やや頑固ないったころはあるものだが、仔馬頃は人懐っこい馬であった。しかし、晩年は決まった事以外の事をしようとすると暴れる気難しい馬へと変遷していった。もとから人の指図を受けるのは嫌いだったこと、見知らぬアメリカの地に渡った事で不安になった等と言われている。
 
リボーは20世紀欧州における最多連勝記録16を残し引退した。16のレースで記録した2着馬との合計着差は100馬身に迫るものだった。子馬の頃は小型で、「イル・ピッコロ」(ちびっこ)と呼ばれた小柄な体格は引退時の計測には体高162.6cm、胸囲188cm、官囲20.3cmにまで成長し、賢そうな顔と、力強い後ろ脚が特徴的な競走馬になっていた。体高は平均より高いが、体重は低かったと言われている
 
== エピソード ==
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== 血統 ==
血統構成は、父方母方ともに3代に渡ってテシオの生産馬、又は購入馬で占められることが特徴テシオの集大成のような血統構成となっている。テシオは自身の生産した種牡馬をあまり用いず、繁殖牝馬も牝系を育てる一方、毎年多くの馬を購入することでめまぐるしく変えていたため、このような血統構成を持つ馬はほかにあまり見当たず、。特に父系は4代にたってテシオの生産っていて、起点となる祖祖父カヴァレ・ダルピーノ自身生前集大成フェデリコ・テシオが生涯最良も言え評価していた馬である。
 
=== 血統表 ===