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=== 市郡合併 ===
[[日露戦争]]<ref group="†">1904年(明治37年)22月8日 - 1905年9月5日</ref>を機に日本が世界の一等国<ref group="†">[[万国公法]]による国の格付けのうち、最上のもの。</ref>の仲間入りをしたという自負が国民の中に生まれた<ref>[http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume033.html 日露戦争]([[NHK高校講座]]日本史)</ref><ref>{{PDFlink|[http://rdarc.rds.toyo.ac.jp/webdav/frds/public/kiyou/rdvol13/1nishikawa.pdf 日本の戦略文化と戦争]}}(国際地域学研究 第13号 2010年3月)</ref>。また、日露戦争により日本は[[軽工業]]から[[重工業]]に産業の中心が移り<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe6_d04_02.html 交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察]([[東京大学出版会]] 1986年)</ref>、東京~横浜間には徐々に[[京浜工業地帯]]が形成され始めた<ref>{{PDFlink|[http://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150_2.pdf 第2章 京浜工業地帯の発展と相次ぐ試練の半世紀]}}([[横浜税関]])</ref>。東京市の人口は、日露戦争終戦直後の1906年に初めて200万人を突破した<ref>[http://token.or.jp/magazine/g200002.html 新宿新都心と淀橋浄水場](社団法人 東京建設業協会『東建月報』2月号)</ref>が、1908年の約219万人をピークに1913年には約205万人に減少した。そのような中でも東京市周辺の人口は増加を続けており、市内と周辺で相反する状況になった([[国勢調査以前の日本の人口統計|参照]])。すると[[大正]]年間に入る頃から'''大東京'''という表現が見られるようになった。多くの場合それは従来の東京市(15区)と隣接5郡82町村([[荏原郡]]・[[豊多摩郡]]・[[北豊島郡]]・[[南足立郡]]・[[南葛飾郡]]の各全域。豊多摩郡は東多摩郡と南豊島郡が1896年に合併して成立。)に、しばしば[[北多摩郡]][[砧村]]・[[千歳村 (東京府)|千歳村]]を加えた地域を指していた。これは現在の東京都区部(東京23区)の区域に相当する。
 
[[第一次世界大戦]]<ref group="†">1914年7月28日 - 1918年11月11日</ref>が勃発すると日本は、1915年下半期から1920年3月まで[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]に沸き、市内も周辺も人口が増加した。