「恵王 (魏)」の版間の差分

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 '''恵王'''(けいおう、[[紀元前400年]] - [[紀元前319年]])は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[魏 (戦国)|魏]]の第3代君主(在位:[[紀元前369年]] - 紀元前319年)。または初代の[[王]]。[[姓]]は[[姫 (姓)|姫]]。[[氏]]は'''魏'''。[[諱]]は'''罃'''(おう)。
 
== 生涯 ==
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また、それを好機と捉えた秦の商鞅がその翌年の[[紀元前340年]]にすかさず西から侵攻し、商鞅と親交があった総大将の[[魏コウ|公子卭]](恵王の異母弟?)を欺き、これを捕虜として大勝したために、魏は都を[[安邑]]から、東方の[[大梁]](現在の[[開封]])に遷さなければならないほどであった。これ以降、魏は梁とも呼ばれるようになる。このように失意の中にいた恵王は溺愛した太子申の同母弟の[[襄王 (魏)|公子赫]]を世子に定めたという。同時に恵王は「あの時に私が公叔座の言葉を聴いて、公孫鞅とやらを処刑すればこんなことにならなんだのに…」と洩らして、商鞅を誅殺しなかったことを大いに悔いたという。
 
 度重なる敗戦により、魏は衰え、韓と共に斉に服属することとなり、[[文侯 (魏)|文侯]]以来守られてきた覇権を失う結果となった。恵王は[[紀元前319年]]に老衰のために82歳で逝去した。
 
== 孟子との対話 ==
 『孟子』には梁の惠王として登場する。ある時、恵王は[[孟子]]を招いて、「私はこれほどまでに徳を施しているのに、どうして人材は私の元に集まらないのだろうか」と訊ねた。孟子は、戦場から百歩逃げた兵士を、五十歩逃げた兵士が笑ったという[[例え話]]をして、恵王の徳など何ほどのこともないものだと言う事を諭した(「五十歩百歩」の故事)。
 
== 脚註 ==