「ピッグス湾事件」の版間の差分

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| strength2=1,511人
| casualties1=戦死 176人
| casualties2=戦死 115114人<br />捕虜 1,189人
|}}
'''ピッグス湾事件'''(ピッグスわんじけん、{{lang-es|Invasión de Bahía de Cochinos}}、{{lang-en|Bay of Pigs Invasion}})は、[[1961年]]に在米亡命キューバ人部隊が[[アメリカ合衆国]]CIAの支援の下でグアテマラで軍事訓練の後、キューバに侵攻して[[フィデル・カストロ]]革命政権の打倒を試みた事件。
 
ピッグス湾とは反カストロの亡命キューバ人部隊が上陸侵攻した場所の地名(コチーノ、[[スペイン語]]で[[ブタ|豚]]の意)を英訳したもので、別にコチノス湾事件とも呼ばれ、[[キューバ]]をはじめとする中南米諸国においては'''プラヤ・ヒロン侵攻事件'''(Invasión de Playa Girón)と呼ばれる。

またこのピッグス湾事件を第一次キューバ危機として、翌[[1962年]]10月に起き核戦争の寸前までいった[[キューバ危機]]を第二次キューバ危機として、前年のピッグス湾事件を第一次キューバ危機とする呼び方呼ばれたある
== 概要 ==
就任して間もないケネディ大統領の承認を経て[[1961年]][[4月15日]]の爆撃に始まり、17日から上陸部隊がピッグス湾に上陸侵攻を開始したが、[[ソビエト連邦]]の援助を受けた[[キューバの軍事|キューバ軍]]は19日までの3日間の戦いで撃退し、ピッグズ湾に閉じ込められた反カストロ軍<ref group="注">この軍隊を亡命者旅団とも、亡命軍とも、亡命キューバ人グループとも名称は様々であり、「反革命傭兵軍」というのはカストロ政権の側からの呼称であり、傭兵ではなく、実際にキューバから逃れ、カストロ体制を転覆させるためにCIAの訓練をグアテマラで受けた後に故国に上陸した部隊である。失敗後に捕虜となり、その後アメリカが捕虜となったキューバ人上陸部隊1189名の身柄をキューバから入国させたが、これらのグループはケネディ大統領への反感を露わにしていた。</ref>上陸部隊は戦死及び捕虜となった。この事件の直後、キューバ政府は先の革命が[[社会主義革命]]であることを宣言し、[[ソビエト連邦|ソ連]]への接近を強め、その結果翌[[1962年]]10月に[[キューバ危機]]が起きることになる。
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=== アイゼンハワー政権のカストロ転覆計画 ===
[[File:Eisenhower in the Oval Office.jpg|thumb|right|180px|アイゼンハワー大統領]]
[[ファイル:Kennedy and Khrushchev in Vienna 1961.png|thumb|right|220px|[[ウイーン]]で会談するケネディ(左)とフルシチョフ]]
これに先立つ[[1960年]][[3月]]に、カストロのソビエト連邦への接近を憂慮したCIAとアイゼンハワー大統領はカストロ政権転覆計画を秘密裏に開始。母国を脱出してきた[[亡命]]者1,500人をゲリラ軍として組織化し、CIAの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるため、1954年の[[PBSUCCESS作戦]]により親米軍事政権が成立していた[[グアテマラ]]の基地においてゲリラ戦の訓練を行った。この時すでに退任間近だったアイゼンハワー大統領はこの時点でキューバ問題から手を引き、その後は[[リチャード・ニクソン]]副大統領やCIAの[[アレン・ダレス]]長官らに委ねられた。
 
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さらにケネディ政権側にとっては、①政権がスタートしてまだ日が浅く、閣僚やスタッフとの円滑なコミュニケーションが醸成されるにはまだ新しい政府であったこと、②少数の関係者以外は作戦の存在すら知らず計画の細目を検討する時間も機会もなかったこと、③新しい政府がまだ完全に機能するまでには至らずCIAと統合参謀本部だけでの作戦立案であったことが他からの意見聴取を難しくしたこと、などの原因を挙げている。
== 事件後 ==
[[ファイル:Kennedy and Khrushchev in Vienna 1961.png|thumb|right|220px|[[ウイーン]]で会談するケネディ(左)とフルシチョフ]]
ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めていた。しかし、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗と、さらにその後始末への失敗からその責任を厳しく追及し、ダレスCIA長官、[[チャールズ・カベル]]副長官を更迭した。後任にはジョン・マコーンを就任させた。後の記者会見で「古いことわざにあるように、勝利した者には百人の生みの親が集まるが、敗北した者には一人も集まらない孤児(みなしご)だというのがある。私は政府の責任者であり、これはきわめて明白なことです」と語っている。その後彼は軍部とCIAを全く信用しなくなった。そして軍事・情報分野の助言者に対しても懐疑的になった。そのことが翌年1962年10月のキューバ危機で、空爆を強く主張する軍部の意見を抑えて、海上封鎖にもっていく高い手腕に彼の評価が表れている。
 
しかし以後、CIAとの関係は冷え込んでいった。翌年11月の暗殺事件直後に当時の司法長官ロバート・ケネディはジョン・マコーンCIA長官を自宅に呼び出して、「CIAが殺したのか」と詰問してマコーン長官が即座に否定した。ロバートはキューバでの最初の大失敗でCIAにも亡命キューバ人に対してもケネディ兄弟に対する反感が根強いと感じていた。実際、ピッグス湾事件に参加し捕虜となりその後身柄をアメリカに送られた亡命キューバ人グループは反カストロ感情とともに、ピッグス湾で最後に裏切った?ケネディに対する反感は強いものがあった。後に亡命キューバ人グループの指導者ハリー・ウィリアムズに向かってロバートは「君のところの誰かがやったんだろう」と声をかけている<ref>ギャレス・ジェンキンス著「ジョン・F・ケネディ、フォトバイオグラフィ」333P</ref>。
 
カストロ首相はアメリカ合衆国の介入政策から、キューバの独立とキューバ人自身による統治を守るために、軍備増強の必要性を認識し、社会主義体制・共産党政権の[[東側諸国]]との友好関係の確立を図った。それまで[[キューバ革命]]は特に[[社会主義革命]]と宣言されていたわけではなかったが、カストロ首相は[[1961年]][[5月1日]]の[[メーデー]]演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言し、正式に社会主義体制・共産党政権の東側諸国と同盟・友好関係を築いた。