「本願寺の歴史」の版間の差分

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本項目「'''本願寺の歴史'''では、[[親鸞]]を宗祖とする[[浄土真宗]]の寺院である「'''[[本願寺]]'''」が、東西に分立するまでの歴史について述べる。
 
== 親鸞の入滅 ==
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天正19年(1591年)、豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、8月、御影堂を天満から移築する。
 
天正20年(1592年)7月、阿弥陀堂を新築し'''本願寺'''が完成する。しかし教団の内部分裂は継続する。
 
[[文禄]]元年([[1592年]])[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、[[顕如]]の入滅にともない、教如が本願寺を継承する。この時、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため、教団内の対立に発展する。
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関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた[[教如]]は家康にさらに接近する。慶長7年(1602年)、[[後陽成天皇]]の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とする。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする[[西本願寺|本願寺]]教団」(現在の[[浄土真宗本願寺派]])と、「教如を十二代宗主とする[[東本願寺|本願寺]]教団」(現在の[[真宗大谷派]])とに分裂することになる。ただし教如の身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居」であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。つまり形の上では七条堀川の本願寺の境内の一角に構えていた教如の隠居所(本願寺境内の三分の一を占め阿弥陀堂や御影堂もあった)を、六条烏丸に移させたにすぎない。東本願寺が正式に一派をなすのは次の[[宣如]]のときからである。
 
慶長8年(1603年)、[[上野国|上野]]厩橋(群馬県前橋市)の[[妙安寺 (前橋市)|妙安寺]]より「[[親鸞]]上人木像」を迎え、本願寺([[真宗本廟|東本願寺]])が開かれる。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に'''東本願寺'''と通称されるようになり、[[准如]]が継承した七条堀川の本願寺は、'''西本願寺'''と通称されるようになる。
 
一説によると、幕府は、准如が関ヶ原の戦いに際して西軍側についたため准如に代えて教如を宗主に就けようとしたが、教如自身がこれを受けなかった。この時、本多正信が、「本願寺は、現実には表方(准如派)と裏方(教如派)に分かれているのだから無理に一本化する必要はない」との意見を述べたため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したという。正信はさらに「天下ノ御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」と続けているから(「宇野新蔵覚書」「事書」)、そこに幕府の狙い・つまり本願寺を分立させて教団の力を削ぐという意図が隠されていたことが読み取れる。
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;分立以降の歴史
:西本願寺の歴史については、[[西本願寺#歴史|西本願寺「歴史」]]の項目を参照してください
:東本願寺の歴史については、[[東本願寺#年表|東本願寺「年表」]]、および[[真宗大谷派#東西分裂以降の歴史|真宗大谷派「東西分裂以降の歴史」]]の項目を参照してください
 
== 脚注 ==