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J8takagi (会話 | 投稿記録)
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=== プロ時代 ===
[[2005年のJリーグ ディビジョン1|2005年]]サンフレッツェ広島トップチームへ昇格<ref group="注">同期する形で入団。同期、ユースからの同時昇格である高柳、佐藤、森脇、桑田、[[入船和真]]、[[中尾真那]]、[[西河翔吾]]。</ref>。序盤こそサテライトに甘んじたが、第3節名古屋グランパスエイト戦で初のベンチ入り(89分より交代出場)を果たし、す。第5節東京ヴェルディ1969戦で先発出場して1得点1アシストの活躍を見せ、開幕以来[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]を含め6戦連続勝ち星のなかったチームに初勝利をもたらす1得点1アシストの活躍を見せるした。その後も時間は短い途中出場が中心ながらコンスタントに試合出場を続け、3度の決勝点(うち[[ロスタイム]]に2度)を挙げ、チームの上位進出に貢献した。
 
また、同年のU-20日本代表では[[2005 FIFAワールドユース選手権]]のメンバーに選出され、グループステージ・[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦と決勝トーナメント初戦・[[サッカーモロッコ代表|モロッコ]]戦に交代出場。オーストラリア戦では、グループステージ敗退寸前に追い込まれたチームを決勝トーナメントへと導く貴重な得点を挙げた。
 
[[2006年のJリーグ ディビジョン1|2006年]]、広島は新布陣が機能せずJ2降格の危機に晒される。チ、クラブワムが結果を出せストとい中、自身も不調に陥り、Jリーグ屈指の2トップであ戦10試合未勝利を記録す[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]と[[佐藤寿人]]の厚い壁に阻まれなど低迷した。前田も戦術的な問題<ref group="注">相手ラインの裏を取るプレーよりも徹底して足元でボールを受けて個人技で抜きにかかるプレースタイルのため、プレーを研究されてからは、ボールを持って前を向くより先に囲まれて簡単にボールを奪われるシーン目立った。広島には結果として、ライン突破にかけては日本屈指の技術を誇りチームトップクラスのスコアラーである[[佐藤寿人が在籍しており]]と[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]の前に前田はレギュラー争いで厚い壁に阻まれることになった。</ref> や2007年からは[[平繁龍一]]の台頭もあり出場機会が減っていった。
 
[[2007年のJリーグ ディビジョン1|2007年]]、佐藤寿人、ウェズレイの存在に加えて[[平繁龍一]]の台頭もあり、広島での出番を得られなくなった。同年6月、FWに怪我人が続出し得点力不足に陥っていた[[大分トリニータ]]に期限付き移籍。その大分でも出場機会は多くなかったが、残留争いの大一番となった[[大宮アルディージャ]]戦で後半43分に決勝点を挙げ、大分のJ1残留へ向けて貴重な勝利をもたらした。
 
レンタルを延長した[[2008年のJリーグ ディビジョン1|2008年]]大分へレンタル延長。開幕当初は[[高松大樹]]や[[家長昭博]]の負傷もあり、多くの出場機会を得て活躍。また、必死でチェイスに走るなど、課題とされてきた前線守備にも成長が見られた。しかし継続した結果が出ず、シーズン途中には高松や家長の復帰、[[森島康仁]]の加入により、ポジションを奪われてベンチ入りすら出来ないことも増えた。
 
[[2009年のJリーグ ディビジョン1|2009年]]、大分へ完全移籍。ウェズレイ、森島、高松らの怪我で期待されるも、運動量の少なさから前半での交代や、フォワードは[[住田貴彦]]と二人のみにもかかわらず、打開力のあるMF[[金崎夢生]]のFWのコンバートが優先され、ベンチ入りも叶わないなど苦闘を強いられ、チームもJ2降格を経験する事となった。[[2010年]]はJ2に戦いの舞台を移したが、そこでも出番が少なく、[[8月11日]]、J1の[[FC東京]]への期限付き移籍が発表された。
 
[[2010年のJリーグ ディビジョン2|2010年]]はJ2に戦いの舞台を移したが、そこでも出番が少なく、[[8月11日]]、[[2010年のJリーグ ディビジョン1|J1]]の[[FC東京]]への期限付き移籍が発表された。FC東京の[[大熊清]]監督は「前で時間を作れるタイプ<ref>[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00109931.html 【第90回天皇杯4回戦 FC東京 vs 千葉】プレビュー:残留争うF東京、昇格目指す千葉。リーグ終盤を盛り上げる救世主は生まれるか!?] [[J's GOAL]]、2010年11月16日</ref><ref>[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00110014.html 【第90回天皇杯4回戦 FC東京 vs 千葉】大熊清監督記者会見コメント] [[J's GOAL]] 2010年11月18日</ref>」「(控え組主体の)練習試合をすると一番結果を出している<ref>[http://blogola.jp/?p=8627 [FC東京]天皇杯千葉戦に闘志を燃やす前田選手。「怒られているうちが華。期待に応えたいですね」。] [[エル・ゴラッソ]]web版 2010年11月16日</ref>」と評価し、[[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会#4回戦|第90回天皇杯4回戦]]対[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]戦で加入以来初の先発フル出場を果たした。期限付き移籍期間満了により同年限りで退団。
 
[[2011年のJリーグ ディビジョン2|2011年]]は大分に復帰。森島と共に攻撃陣の中心として活躍しリーグ戦では自己最多となる8得点を挙げた。[[9月3日]]の[[カターレ富山|富山]]戦で2度の警告を受け退場を命じられた際、主審に暴力並びに異議行為を行ったとして、リーグ戦6試合・[[第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会#2回戦|第91回天皇杯2回戦]]の計7試合の出場停止が言い渡された。この年は森島と共に攻撃陣の中心として活躍し、リーグ戦では自己最多となる8得点を挙げた。
 
[[2012年]]、大分で活躍が[[石崎信弘Jリーグ ディビジョン1|2012年]]から高い評価を受け、J1に昇格する[[コンサドーレ札幌]]に完全移籍した。札幌の[[石崎信弘]]監督が大分での活躍を高く評価したためである。シーズン序盤からそのキープ力から1トップとして期待され、第7節の[[川崎フロンターレ]]戦ではゴールを決めるものの。しかし、前線で相手DFに潰される場面が目立ち、その結果札幌の攻撃を滞らせ、チームも低迷しる場面が目立った。その結果、7失点を喫した第12節の[[鹿島アントラーズ]]戦での前半途中での負傷退場を最後に出場機会が激減した。チームも低迷し、最終的にチームは1年でのJ2降格となってしまった。
 
[[2013年のJリーグ ディビジョン2|2013年]]、[[2014年のJリーグ ディビジョン2|2014年]]、[[2015年のJリーグ ディビジョン2|2015年]]と、札幌では2012年に加え4シーズンプレーした。
 
2016年、[[ガイナーレ鳥取]]へ移籍<ref>{{Cite press release |title=前田 俊介選手 完全移籍加入のお知らせ|url=http://www.gainare.co.jp/news/detail/31909/|publisher=ガイナーレ鳥取|date=2016-01-06}}</ref>。