「三波伸介 (初代)」の版間の差分

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=== てんぷくトリオ ===
{{Main|てんぷくトリオ}}
「おとぼけガイズ」を解消後は[[1961年]]東京の舞台に復帰し三波は個人として[[太田プロダクション]]に所属する一方、キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった[[伊東四朗]]が「三波・戸塚コンビ」として継続していた(石井の時代からキャバレーとはある芸能事務所が仲介していたため、三波の失踪を隠す意図があった。これ以前にも度々三波の代役を伊東が務めている。)、「(ニセ)三波伸介」として馴染み人気になっていた伊東を外す訳にはいかずあらためて「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫。」とキャバレーの司会者に自己紹介し「三波戸塚伊東トリオ」の3人で営業活動を再開し、あるきっかけから「'''ぐうたらトリオ'''」に改名した。玉川良一との縁で三波は[[フジテレビ]]の[[大島正俊]][[ディレクター]]からテレビ出演の機会を掴み三波と玉川の二人共演から三波単独で引き立てられる機会が増え「'''[[石原裕次郎|裕次郎]]はタフガイ、[[小林旭]]はマイトガイ、三波伸介はモンダイガイ(問題外)'''」と笑いを取って名を売り、三波のもう一方の顔である「ぐうたらトリオ」を制作担当達に紹介し熱心に売り込み、結果トリオのテレビ出演に成功しこれに注目した[[日劇]]から出演依頼が舞い込んできた。出演に際してグループ名の「ぐうたらトリオ」には品位が無いと一方的に「'''[[てんぷくトリオ]]'''」へ改名させられたがこれ以降三波伸介、[[戸塚睦夫]]と[[伊東四朗]]の三人組は舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たり[[ギャグ]]「'''びっくりしたなぁ、もう'''」はこの頃生まれた。
 
=== 「笑点」で司会者へ ===
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=== 晩年・突然の死 ===
[[1982年]][[12月8日]]15時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを外出から戻って来た妻の和子夫人と付き人波連太郎が発見、救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・[[心停止]]の意識不明状態で、[[大動脈解離|解離性大動脈瘤破裂]]により意識は戻らないまま急逝した。満52歳没([[享年]]53)。<br />
 
[[肥満|肥満体]]であったことと、多忙のため多い日でも3〜5時間しか睡眠を取れず、[[タバコ]]は一日最低でも3箱を吸い、さらに[[コーヒー]]も数杯好んで飲んでいた。ただし、[[酒]]は[[下戸]]で一滴も飲まなかった。多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の[[訃報]]を受け駆けつけた盟友の伊東は対面で開口「こりゃあウソだろう。寝てるんだろう!」と発し記者会見の場で、「(三波の亡骸を触ったときに)体がまだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて……。寄らば大樹の陰で、私などは彼のおかげでここまで来れた。(てんぷくトリオは)もう一人になってしまったんだなぁ……」と言いながら号泣した。[[棺]]に納められる際の三波は、和子夫人、息子で現[[三波伸介 (2代目)]]と伊東によって黒の紋付き袴が着せられた。<br />
 
テレビとそのお茶の間で人気者の訃報に[[マスコミ]]の取材活動は過熱したが関係者が取り成し遺族への接触を遮断、和子夫人は一度だけ全てのマスコミ記者インタビューに応じて立ち「パパ(三波はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ(大意)。」と答えその様子が[[ワイドショー]]番組やニュースで繰り返し放送された。後年(時期不明)「すぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという<ref>ただし、息子の三波伸介(2代目)はこの説を否定している。以下「喜劇役者二代目三波伸介オフィシャルブログ」の「母の話 その11」( http://ameblo.jp/minamishinsuke/entry-11276922679.html )より引用(2012-6-14閲覧)(引用開始)「そんな訳ないでしょう‼//イタズラと本当に倒れているのは明らかに違います!/母はすぐに気づきましたよ!/すぐに救急車の手配もしてます。/確かに母は/「私がいれば良かった!パパを一人にするんじゃ無かった!パパを一人で死なせた事は生涯、背負っていく!」/と叫んでいました。/しかし複数の医師の判断は/「発作が起きて十数秒で意識を失っています。/例え医師が横に居ても助けるのは難しい。奥様、ご自分を責めない様に」との事です。/母の名誉の為に記しました。」(引用終了) </ref>。コメディアンや演芸人には仲間や自身の生涯を締めくくる儀式で悲しみを和らげる為に不謹慎な言動<ref>[[たこ八郎]]の死去など。</ref>やわざわざ手段を遺言で残すなど不文律の慣習傾向が一部にみられ、和子夫人も事前に考えて用意した節があり発言のなかで「三波はよく死んだふりをして家族をからかうこと」は家族が喜ぶイタズラ(サプライズの贈り物など)をよく仕掛けていたとされる三波の信条に反し真偽は定かでない。<br />
 
テレビとそのお茶の間で人気者の訃報に[[マスコミ]]の取材活動は過熱したが関係者が取り成し遺族への接触を遮断、和子夫人は一度だけ全てのマスコミ記者インタビューに応じて立ち「三波はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ(大意)。」と答えその様子が[[ワイドショー]]番組やニュースで繰り返し放送された。後年(時期不明)「すぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという<ref>ただし、息子の三波伸介(2代目)はこの説を否定している。以下「喜劇役者二代目三波伸介オフィシャルブログ」の「母の話 その11」( http://ameblo.jp/minamishinsuke/entry-11276922679.html )より引用(2012-6-14閲覧)(引用開始)「そんな訳ないでしょう‼//イタズラと本当に倒れているのは明らかに違います!/母はすぐに気づきましたよ!/すぐに救急車の手配もしてます。/確かに母は/「私がいれば良かった!パパを一人にするんじゃ無かった!パパを一人で死なせた事は生涯、背負っていく!」/と叫んでいました。/しかし複数の医師の判断は/「発作が起きて十数秒で意識を失っています。/例え医師が横に居ても助けるのは難しい。奥様、ご自分を責めない様に」との事です。/母の名誉の為に記しました。」(引用終了) </ref>。コメディアンや演芸人には仲間や自身の生涯を締めくくる儀式で悲しみを和らげる為に不謹慎な言動<ref>[[たこ八郎]]の死去など。</ref>やわざわざ手段を遺言で残すなど不文律の慣習傾向が一部にみられ、和子夫人も事前に考えて用意した節があり発言のなかで「三波はよく死んだふりをして家族をからかうこと」は家族が喜ぶイタズラ(サプライズの贈り物など)をよく仕掛けていたとされる三波の信条に反し真偽は定かでない。<br />
(で三波と共演)
[[葬儀]]・告別式は[[12月11日]]、東京都[[中野区]]の[[宝仙寺]]で営まれ、葬儀委員長は伊東が務めた。葬儀には芸能・放送関係者やファンら約1,600人が参列し、三波の突然の死を悼んだ。弔辞は「お笑いオンステージ」のチーフプロデューサーを務めた[[増子正利]]らが読み、仕事の都合で参列出来なかった[[中村メイコ]]は事前に対面し弔い棺に「てんぷく笑劇場」の配役用に製作した指輪<ref>大抵中村メイコの役名は本名である(神津)五月で概ね三波と中村は夫婦役だったがある時には嫁姑、またある時には幼なじみなどいくつかの設定があった。</ref>を納め、式には肉声テープが式場内で流された。「参列できずごめんなさい。でも、泣きのメイコがにっこり笑って舞台を務めます。(中略)大衆に結びついた喜劇をまっしぐらに追ったあなた。日本中に大きな笑いを振りまいたあなたに拍手を送ります。さようならは言いません。お疲れ様でした。」と泣きながら三波へ最後のメッセージを語り続けた。出棺後、遺体は東京都[[品川区]]の[[桐ヶ谷斎場]]で[[荼毘]]に付された。<br />
 
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* [[ザ・ドリフターズ]]のリーダー・[[いかりや長介]]とも親交が深く、兄弟分の間柄であった(三波の方が1歳年上)。いかりやの自伝『だめだこりゃ』によると、いかりやは自分と同年輩の仲間が周囲にほとんどおらず、コメディの世界では三波だけが唯一の同年輩で、しかも同じ東京([[下町]])の生まれであったため、三波とは共通の話題を持つことができて嬉しかったという。
* 実際に三波がライバル視していたのは[[渥美清]]と[[藤山寛美]]であり、特に渥美に対しては敵意をむき出しにしていたと言われる。三波と渥美は共に同じ[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃には渥美は既にトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていたことや、また三波の妻と渥美が旧知の間柄であったことなども、三波に一層の敵対心を抱かせた原因といわれる。三波が生前「喜劇王」を目指すと公言していたのも、ひとえに渥美を超えたい一心だったものともいえる。
* 三波が渥美を敵視するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった妻和子夫人と結婚前、新橋でデートしている所に渥美と遭遇、渥美は三波を無視して妻と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の[[三波伸介 (2代目)|三波伸一(のちの2代目三波伸介)]]が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩き付けて悔しがったという。三波は息子に渥美と藤山寛美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に「[[男はつらいよ]]」の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めていたからこそのライバル視であったことがうかがわれる。[[1977年]]に公開された[[松竹映画]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』[[山田洋次]]監督・[[高倉健]]主演で渥美が演じた渡辺係長の役を、[[1982年]]に[[菅原文太]]主演で[[テレビドラマ]]でリメイクされたとき、三波がこの役を演じている。
* のちの妻和子夫人は児童劇団銀の鈴を経て河井洋子の芸名で浅草ロック座でおもに[[ダンサー]]を勤めこの頃[[永井荷風]]に可愛がられダンサー仲間と食事をご馳走になったり話し相手になり子役からの芸能体験で小説の種を提供したと云う。[[1952年]]には新宿フランス座に移籍したのちに三波と出会った。
* 三波は50歳になった頃から、テレビでの活動を減らし、舞台での活動に力を注ぎ始めていた。好評だったNHK「お笑いオンステージ」が10年目の区切りとして[[1982年]]4月4日放送分で終了しそのコーナーの一つだったてんぷく笑劇場をもとに舞台で心機一転を図ったとも当時の芸能界において喜劇役者の代表といえば映画の渥美清、舞台の藤山寛美、そしてテレビの三波を指すのが通例であり、三波はテレビでの成功を収めた後、今度は渥美と藤山のライバルとして彼らと同じ舞台で競うことを新たな目標にしていたともされるがその目標は三波自身の突然の死により途中でで断たれることとなった。
* NHKから伊東四朗に[[バラエティ番組]]『[[コメディーお江戸でござる]]』<ref>1994年8月~1999年3月まで</ref>の出演を依頼された際にはかつてのテレビ放映した舞台実況公開コメディーの再現と復活の熱意を制作スタッフから伝えられ、[[滝大作]]を交え企画段階から制作助言を行い伊東は「『お笑いオンステージ』は三波(伸介)という“上”がいて、私はわき役だったので楽でしたが、今回は座長として番組の中心にいるので苦労していますよ。全体を見渡さなければなりませんから。」と苦労を語っていた<ref> [http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=entertainment011 特集 なつかしの番組 コメディーお江戸でござる-NHKアカイブス]</ref><ref> 番組降板後に伊東は「てんぷくトリオ(ひいては三波)が果たせなった将来の一部を試みることが出来た。」と述懐している。</ref>。