「扶桑 (戦艦)」の版間の差分

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m 桂島→柱島に訂正、長門、大淀、龍田の艦名を、それぞれ「」で囲みました。
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{{main|扶桑型戦艦#第二次近代化改装と、その結果}}
 
第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の[[1934年]](昭和9年)10月下旬から行わ実施され、[[1935年]](昭和10年)2月19日まで、同じく呉で行われた<ref>[[#歴群30扶桑型]]p.127</ref>。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。水平防御の強化された他、艦橋上の測距儀も8mのものを搭載し、防に換装され射撃指揮装置も一新された。対施設火器の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のフィリピン決レイテ沖海には[[電探]]も積ま搭載さていた。機関善という点では修され出力が5000馬力出力増加し、改装後の公試では24.7ktを発揮した。外観上の特徴としては、煙突が1本になった<ref>[[#ポケット海軍年鑑(1937)]]p.13『戰艦"扶桑 ふさう" 全要目{排水量29,330噸 速力22.5節 備砲36糎砲12門 15糎砲16門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管2門 起工明治45年3月 竣工大正4年11月 建造所 呉工廠} 約3ヶ年を要して大改装を完成した扶桑ほど、思ひ切つた近代化を示して世界をあつと云はせたものはあるまい。それほどこの近代化は異彩を放ち、竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。煙突は一本に省略されカタパルトが嚴然と据ゑられ(山城では射出機は艦尾にある)探照燈架が増へ、後檣が大きくなつて、人をして同艦であるかを疑はしめたほどの蝉脱振であつた。長さ192.02米、幅28.68米(山城28.65米)平均吃水8.69米。』</ref>。
捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18kt~21.5kt程度に止まり<ref>「レイテ沖の日米大作戦」p60、「第3/2. 海上作戦(レイテ海戦)(2)」p1~6、「昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報. 第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)」p12、32、「昭和19年10月18日~昭和19年10月25日 軍艦最上戦闘詳報」p7「昭和19年10月23日~昭和19年10月27日 駆逐艦時雨戦闘詳報」p34~36</ref>、日本戦艦中最も遅い戦艦となったとされる。一方で、戦闘運転で26ノットを出したという証言もある<ref name="佐藤艦長文庫12"/>。また、この第二期近代化改装では水平防御の強化、射撃指揮装置や測距儀の換装なども行われた。主砲一斉射撃時の爆風についても鶴岡信道(第33代扶桑艦長。当時大佐)は特に問題なかったとするが、遠距離射撃時の散布界が広くなる傾向は否めなかったとしている<ref name="佐藤艦長文庫12"/>。また水平防御(対250kg爆弾)については不安を抱えており、『結果的には、「扶桑」「山城」という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね。』と回想している<ref name="佐藤艦長文庫12"/>。
 
=== 太平洋戦争 ===