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|政党=[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]]
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'''クリスティアン・ヴィルヘルム・ヴァルター・ヴルフ'''(Christian Wilhelm Walter Wulff, [[1959年]][[6月19日]]‐)は、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]の[[政治家]]、第10代[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]。所属政党は[[ドイツキリスト教民主同盟]] (CDU)。[[2003年]]より[[2010年]]まで[[ニーダーザクセン州]]首相を務めた。[[ホルスト・ケーラー]]の辞任に伴い、後任の[[ドイツの大統領|連邦大統領]]に選任され、ドイツ連邦共和国建国以来最年少大統領とな就任であった<ref>ドイツ史上では[[フリードリヒ・エーベルト]]が48歳で、正規の手続きを経ずかつ大統領を名乗っていないものの、[[アドルフ・ヒトラー]]が45歳で大統領職に就任している。</ref>。
 
== 経歴 ==
=== 初期の経歴 ===
[[オスナブリュック]]生まれ。両親が離婚し、継父も家族を捨てたため、[[多発性硬化症]]を患っていた母を16歳で介護し、また妹たちを育てた。[[ギムナジウム]]在学中の[[1975年]]にCDUに入党。同党の青少年組織である{{lang|de|Schüler Union}}で活動し、[[1978年]]から[[1980年]]までその全国代表を務め。1979年に[[オスナブリュック大学]]に入学して経済法を重点に[[法学]]を学んだ。在学中もCDUの青年組織Junge Unionで活動し、1979年から1983年までその代表委員を務め、[[1983年]]から[[1985年]]まではニーダーザクセン州代表を務めた。また[[1984年]]から同州のCDU代表部に入った。[[1987年]]、第一次法曹試験に合格。[[1990年]]に第二次法曹試験(国家[[司法試験]])に合格、[[弁護士]]資格を取得した。
 
[[1986年]]、オスナブリュック市議会議員に当選(‐[[2001年]])。[[1989年]]から同市議会でCDU議員団長を務め。[[1994年]]、ニーダーザクセン州議会議員に初当選し、CDUの州代表および州議会党議員団長に就任。[[1998年]]11月には直前の[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]選挙で敗北したCDUの、4人の副党首の一人に抜擢された。1994年の州議会選挙では州首相候補として[[ドイツ社会民主党]] (SPD) の現職[[ゲアハルト・シュレーダー]]州首相(当時)に挑戦したが敗れ、1998年にも挑戦したが敗北した。シュレーダーが[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]に転出した後の[[2003年]]3月、州議会選挙で現職の[[ジグマール・ガブリエル]]州首相率いるSPDを破ってついに州首相の座を手に入れた。ヴルフ内閣はCDUの閣僚7人と[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]] (FDP) の閣僚2人からなる連立政権である。
 
=== 州首相 ===
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州首相就任当初は財政立て直しのため、社会保障の縮小を含む大規模な緊縮財政を行った。とりわけ教育費は大きく削られたが、その結果州の新たな負債は彼の就任当初から半減し、[[2007年]]には、[[2001年]]以降では初めて州憲法の規定する負債に頼らない州予算案を立てることができた。その他州の学制を改革して[[アビトゥーア]]の受験可能学齢を引き下げたり、行政管区 (Regierungsbezirk) を廃止して州行政を各自治体と州政府の二段階制に改めるなどの改革を行った。その他警官を増員して治安向上に努めたり、職業訓練の機会を増やした点もその業績として挙げられている。ニーダーザクセン州首相は地元に本社のある[[フォルクスワーゲングループ]]の監査役を兼ねているが、2007年3月にヴルフは11億5千万[[ユーロ]]を投じて同社の株5%を取得し、ニーダーザクセン州の持ち株比率を25%まで引き上げ、同社経営に対する州政府の発言権を大きくする旨を言及した。
 
早くも[[1995年]]には[[世界経済フォーラム|ダボス会議]]で「明日のリーダー100人」に選出されていたが、CDUの中で将来の連邦首相候補としてもっとも有力であると取り沙汰されていた。2007年に行われた世論調査では、ドイツでもっとも人気の高い政治家の一人に入った。またニーダーザクセン州の政治家の中でももっとも人気が高かった。[[2008年]]1月に行われた州議会選挙では議席を減らしながらもヴルフの連立与党が過半数を制し、同じく連邦首相候補と目された[[ヘッセン州]]の[[ローラント・コッホ]]州首相をしり目に、党内での「未来の連邦首相候補」の地位を固いものとした。2010年4月に内閣改造を行い、[[アイギュル・オズカン]]を社会・婦人・家族・健康・同化相に任命したが、彼女はドイツ史上初の[[ムスリム]]の大臣となった。
 
=== 連邦大統領 ===
2010年5月、[[ホルスト・ケーラー]]大統領が[[アフガニスタン]]訪問時の失言の責任を取って辞任した際、CDU・FDP連立である[[アンゲラ・メルケル]]政権より後任の連邦大統領候補に選ばれ、2010年6月30日に行われた[[連邦会議 (ドイツ)|連邦会議]]で、SPDや緑の党が推す対候補[[ヨアヒム・ガウク]]らに対し、三選第3回投票渡るもつれこむ苦戦の末に選任された。尚、連邦大統領選へ参加就任にあたっては、ドイツ連邦共和国基本法55条に基づき、その候補はより連邦大統領以外連邦府及び州政府の公職に就くことが許されていないためヴルフはニーダーザクセン州首相を辞任する旨を州議会に届け出て辞任した。
 
2011年末、ニーダーザクセン州首相在職中の2008年、自宅購入資金として50万ユーロの融資を知人から低金利で受けていたことが発覚。更にこの事実を報道しようとした新聞紙の編集長に対し、記事を掲載しないよう電話したことも明らかになり、批判を浴びた。これに対しヴルフは[[2012年]][[1月4日]]、[[ドイツ公共放送連盟|ARD]]と[[第2ドイツテレビ|ZDF]]の取材に応じ「違法行為は何もしていないが、全ての行いが正しかったわけでもない」「(新聞社編集長への電話は)ひどい過ちだった」と釈明し、任期満了までの続投を表明した<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LXBRDY0D9L3501.html ドイツ大統領:職務遂行を表明-報道への圧力は「ひどい過ち」と謝罪]> 2012年1月5日付 Bloomberg.co.jp</ref>。これに対し同月8日には、大手不動産会社のサイトにヴルフや[[連邦大統領 (ドイツ)#官邸と公用車|ベレヴュー宮(ベルリン大統領官邸)]]の写真と共に「賃貸物件。3棟で1ヶ月1ユーロ。[[連邦首相府 (ドイツ)|首相官邸]]至近。現住人は近く退去」と書かれたいたずら広告が一時掲載される事態も起きている<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE80905T20120110 独不動産会社サイトにいたずら広告、「大統領官邸が賃貸物件に」]> 2012年1月9日付 ロイター・ジャパン</ref>。
 
2012年2月17日、検察により汚職事件の捜査が本格化されたのに伴い連邦大統領職を辞任した。2013年4月12日に在宅起訴された<ref>{{Cite news
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130412-OYT1T01087.htm
|title=前ドイツ大統領、収賄の罪で在宅起訴
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== 人物 ==
宗派は[[カトリック教会|カトリック]]。一女をもうけた夫人とは[[2006年]]に離婚。その後、[[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタル]]社の広報官だった{{仮リンク|ベッティナ・ヴルフ|en|Bettina Wulff}}(旧姓ケルナー)と2008年に再婚して一男をもうけた(ベッティナには事実婚の前夫との間に息子が一人居る)が、大統領辞任からおよそ1年後の2013年1月、ベッティナと離婚した<ref>http://www.fr-online.de/politik/ex-bundespraesident-wulff-und-ehefrau-bettina-trennen-sich,1472596,21402036,view,asTicker.html</ref>。現在は[[ハノーファー]]に暮らしている。2007年に[[上海市|上海]]の[[同済大学]]より名誉[[博士号]]を受けた。2006年には「ネクタイの最も似合う男性」に選出されている。ニーダーザクセン州の[[リューネブルク]]と姉妹都市関係を結ぶ[[徳島県]][[鳴門市]]や、フォルクスワーゲン工場のある[[愛知県]][[豊橋市]]も訪れたことのある親日家<ref>2010年7月2日付 中日新聞朝刊4面</ref>。自宅には1万冊の蔵書がある<ref>2010年7月2日付 読売新聞朝刊7面</ref>。
 
== 脚註 ==