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[[太公望]]の子[[丁公 (斉)|丁公]]を祖とする崔氏の当主・崔杼(「杼」は「ちょ」とも「しょ」とも読まれる)は、英主・[[桓公 (斉)|桓公]]の子である恵公に仕えて寵を得、若くして重用されるが、恵公の死後に斉の卿(大臣格の貴族)である高氏と国氏にそれまでの専権を憎まれ、[[衛]]に亡命する。恵公の孫の霊公の時代に斉に復帰し、国氏を失脚させて再び権力を掌握した。
霊公は[[紀元前564年]]に公子光を太子に立てていたが、[[宋 (春秋)|宋]]から迎えていた戎
崔杼はその後、荘公の弟の公子杵臼を君主として擁立した。これが景公である。崔杼は[[慶封]]と共に国内を掌握し、反対者が出ないように大夫・士(貴族の階級)たちを集め、「崔・慶に組しないものはこれを殺す」と宣言し、斉の国民に絶大な人気があった[[晏嬰]]をもこれに従わせようとするも、晏嬰はこれを断った。しかし、崔杼は結局晏嬰を殺害することはしなかった。
その後、景公を傀儡として政治を行ったが、家庭内で前妻の子と後妻の連れ子とが対立し、それに慶封が介入して権力を独り占めにしようとしたために一族は全滅し、一人残された崔杼は自
== 「崔杼弑君」 ==
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