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{{出典の明記|date=2015年6月}}
{{記事名の制約|title=毌丘倹}}
'''&#x6BCC;丘 倹'''<ref>[[中華書局|中華書局本]]発行の『[[晋書]]』にある「校勘記」によると、姓の『&#x6BCC;』の字は貫くの意で、毋(ブ)・母(ボウ)と混同し易いが、別字である。また、『晋書』の注釈書の一つである『[[晋書音義]]』によると、&#x6BCC;の字は毋であり、音は「ブ(無)」で「ぶきゅうけん」と読むべきだと記されているが、後の研究により「かんきゅうけん」が正しいことが判明している。</ref>(かんきゅう けん、? - [[255年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の武将。[[字]]は'''仲恭'''。[[司隷]][[運城市|河東郡]][[聞喜県]]の人。父は{{lang|zh|毌}}丘興。妻は荀氏。弟は&#x6BCC;丘秀。子は[[カン丘甸|&#x6BCC;丘甸]]・&#x6BCC;丘宗ら。孫は&#x6BCC;丘重・&#x6BCC;丘奥。孫娘は&#x6BCC;丘芝。[[司隷]][[運城市|河東郡]][[聞喜県]]の人
[[File:Guanqiu Jian commemoration stele.jpg|thumb|&#x6BCC;丘儉帶步騎兵萬人出[[玄菟]]討伐[[高句麗]]]]
==経歴==
===若き日===
父は[[曹操]]に仕えた人物で、[[曹丕]](文帝)の時代に[[武威郡|武威]][[太守]]として活躍した。[[蘇則]]や[[カク昭|郝昭]]と共に[[雍州]]・[[涼州]]の平定に功績があり、[[将作大匠]]となった。&#x6BCC;丘倹は父の死後爵位を継いだ。
 
&#x6BCC;丘倹は父の功績もあって[[曹叡]](平原王、後の明帝)に即位前から仕え、厚遇された。曹叡が即位すると[[尚書]]郎となり、[[羽林]]監に昇進した。
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===高句麗遠征===
[[遼東郡|遼東]]の[[公孫淵]]は年々傲慢になり、[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]の調略の手を受けつつ、不審な行動を続けていた。このため&#x6BCC;丘倹は曹叡の命令により幽州刺史に転じた。[[237年]]、[[高句麗]]や[[烏桓]]に援軍を求め、北方の余剰戦力を動員して公孫淵征伐を図ったが、[[衛臻]]から兵数に任せ用兵を軽視していると批判された。結局公孫淵を攻めきれず撤退したため、かえって公孫淵の勢いを増幅させることになってしまい、公孫淵が燕王を自称することにつながった。翌年、[[司馬懿]]の指揮下でようやく公孫淵を破ることに成功した([[遼隧の戦い]])。この功績により[[安邑]][[侯]]に昇進している。
 
呉の調略が[[朝鮮半島]]の諸勢力にも及んでいたため、魏が[[楽浪郡]]と[[帯方郡]]を設置して整備すると、朝鮮半島の諸勢力と関係が緊張したという。高句麗の[[東川王]](憂位居)は公孫淵討伐には協力的であったものの、[[242年]]以降には再び魏と険悪な関係になった。このため&#x6BCC;丘倹は高句麗への攻勢を強め、[[244年]]には更に東へと進んで高句麗の軍勢を大破し、都の[[丸都]]を蹂躙した。しかし東川王(憂位居)に逃られてしまったため、高句麗を滅ぼすことはできなかった。この功績により恩賞を受け、侯となった者は百余人もいたといわれる。[[トンネル|隧道]]を掘り灌漑を行なったので、住民は恩恵を受けた。