「三船敏郎」の版間の差分

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[[1940年]](昭和15年)、三船は先輩兵である[[大山年治]]([[東宝]]撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われた。が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参[[上等兵]]」のまま6年間を過ごした。[[1945年]](昭和20年)の戦争末期には[[熊本市|熊本]]の[[隈庄町|隈之庄]]の[[特攻隊]]基地に配属され、出撃前の隊員の[[遺影]]を撮る仕事に従事した。
 
写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任された。自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという<ref>聖教新聞 2006.1.18</ref>。息子である長男 史郎の話によると、明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったという。また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った<ref> 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」(月刊文藝春秋 2013年11月号) より、改訂され『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年)</ref>。
 
=== 映画界入り ===