「アイルランド共和国 (1919年-1922年)」の版間の差分

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|region = Ireland
|country = Ireland
|status = 革命によって樹立された国家
|p1 = グレートブリテン及びアイルランド連合王国
|flag_p1 = Flag of the United Kingdom.svg
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== 機能 ==
 
アイルランド共和国には機能している国家とみなせる点があった。内閣(後期の段階では国家元首もいる)、議会、司法システム、警察、憲法を有していた。どの程度機能しているかはアイルランド島の地域によって異なっており、地域におけるアイルランド共和国軍の支配の度合いと、1920年6月から1921年7月まで活動していたブラック・アンド・タンズや警察予備隊の容赦ない取り締まり双方のかねあいによって成功するか否かが決まっていた。ブラック・アンド・タンズがより残虐になるほど、地元民はダブリン城政府や巡回裁判に対して好意を抱かなくなり、共和国が提供するもうひとつの体制が大きな成功をおさめるようになった。許可無く[[移出することを禁ずる1920年8月6日のドイル・エアラン宣言などは荒っぽいやり方で施行された<ref>[http://www.oireachtas-debates.gov.ie:80/D/DT/D.F.C.192008060089.html Debate and approval of the ban on emigration, 6 Aug 1920]</ref><ref>{{cite news |url=http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40A1EFF3A5B11728DDDA90A94DA405B818EF1D3&scp=1&sq=passports%20liverpool%20ireland&st=cse |title=SINN FEIN RAIDS HALT EMIGRANTS |date=20 February 1921 |work=New York Times |page=3 |accessdate=4 November 2010}}</ref>。
 
[[アイルランド独立戦争]]の最中、ブラック・アンド・タンズの暴力行為は[[コーク (アイルランド)|コーク]]の街を焼いてしまうような熾烈な度合いに達し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]や[[アメリカ合衆国]]などからも広く批判を受けた。このため共和国警察とドイル法廷は隆盛を極め、英国の法廷制度で資格を持っている上級の[[法廷弁護士]]はドイル法廷の被告の代理人もつとめることになった。しかしながら1921年7月の停戦の後、ブラック・アンド・タンズが活動を停止した後、ドイル法廷と警察はそれほど継続的かつ広範に影響を及ぼすことができていないと見なされていた。これは新しい警察が活動開始できるようになる前、1922年初頭に[[王立アイルランド警察隊]]が解隊したことも一因であった。この間、アイルランド共和国軍が唯一の警察権力であったが、条約をめぐって内部分裂していた。
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共和国への支持は戦争中、常に増減を繰り返していたが、国の南部で最も強かった。アイルランド共和国が権力を有しているという主張は、ユニオニストが多い北アイルランドや[[ダブリン州]]南部では反発を受けた。
 
== 承認 ==
国際的な承認を得るためのデ・ヴァレラ大統領のアメリカ合衆国での努力と「共和国大使」のショーン・T・オケリーの[[ヴェルサイユ講和会議]]での努力は、失敗に終わった。オケリーは、すでに1919年4月にパリに大使館を設立していた。そして、ドクター・パトリック・マックカートンは同時期に[[ワシントンD.C.|ワシントンD.C]].に大使館を設立した。著名なアイルランド系アメリカ人からの熱烈なロビー活動にも関わらず、[[ウッドロウ・ウィルソン|ウッドロウ・ウィルソン大統領]]は、英国に対し敵対したくなかったので会議でアイルランドの件をとりあげることを拒否した。ついに6月に承認を求めるアイルランドの要求は議長の[[ジョルジュ・クレマンソー]]に伝わったが、要求は上手くいかなかった<ref>[http://difp.ie/viewdoc.asp?DocID=13 Demand for recognition, Paris 1919]</ref>。
 
== 消滅 ==
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1922年12月6日にアイルランド自由国の憲法が施行され、アイルランド共和国と臨時政府の両方の機関は消滅した。
 
 
== 英愛条約 ==