「寛永の大飢饉」の版間の差分

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[[寛永]]19年([[1642年]])前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在している。島原の乱が収束した寛永15年頃には九州で[[牛疫]]が西日本に伝染し、牛の大量死をもたらす。寛永17年([[1640年]])6月には[[蝦夷駒ケ岳]]が噴火し、降灰の影響で津軽などで凶作となる。
 
18年に入ると機内、中国、四国地方でも初夏には日照りによる旱魃が起こったのに対し秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風。その他、大雨、洪水、旱魃、霜など全国的な異常気象となり、虫害もあった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、[[天保の大飢饉]]に似た様相であるという。不作は翌19年にも続き、[[百姓]]の[[逃散]]や身売など飢饉の影響が健在化しはじめると幕府は対策に着手。同年5月に将軍[[徳川家光]]は諸大名に対し領地へ赴いて飢饉対策をするように指示し、翌6月には家光は諸国に対して、倹約のほか米作を離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止など、具体的な飢饉対策を指示する触を出す。これは、[[キリシタン禁制]]と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。
 
寛永19年末から翌20年にかけて餓死者は増大し、[[江戸]]をはじめ三都へ人口が流動。幕府や諸般は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引渡させる。また、大名の扶持米を江戸へ廻送させ、米不足や米価高等に対応。3月には、[[田畑永代売買禁止令]]を出す。