「ミゲル・デ・セルバンテス」の版間の差分

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== 生涯 ==
セルバンテスは、[[イダルゴ]](下級貴族)の家の次男として[[1547年]][[9月29日]]にマドリード近郊の[[アルカラ・デ・エナーレス]]で生まれた。父は外科医であり、祖先を1492年以前にさかのぼるとユダヤ人だったとして、セルバンテスは[[コンベルソ]]([[カトリック教会|カトリック]]に改宗した[[ユダヤ教徒]])もしくは[[新キリスト教徒]]ではないかという研究者もある<ref>{{cite book|last = Rosa|first= Rossi|title=Tras las huellas de Cervantes. Perfil inédito del autor del Quijote|others=Juan Ramón Capella翻訳|location =Madrid|publisher= Trotta|year =2002|ref=harv}}</ref><ref>{{cite book|last = Howard |first =Mancing|title= The Cervantes Encyclopedia|location= Westport, Connecticut|publisher = Greenwood|year = 2004 |others =合計2巻|ref=harv}}</ref>。これに関しては諸説あり、新キリスト教徒の歴史研究者は{{仮リンク|アメリコ・カストロ|en|Américo Castro}}をはじめセルバンテスの母がコンベルソだったとしているが状況証拠に依る説であること、コンベルソであったならセルバンテスの人生にまつわるいくつかの疑問を説明できることが指摘され<ref>{{cite book|last =Byron|first= William|title =Cervantes: A Biography|p=32|ref=harv}}</ref>、あるいは文学界にこの説を強くおすアントニー・カスカルディ(比較文学論)<ref>{{cite book|last =Cascardi|first = Anthony J.|year =2002|url=https://books.google.com/books?id=I3D2wEERXNkC&printsec=frontcover&dq=Anthony+Cascardi+cervantes&hl=en&sa=X&ei=F1coUpj7Juam0wXhsYEg&ved=0CDgQ6AEwAg#v=onepage&q=converso&f=false|title = The Cambridge Companion to Cervantes|p= 4.|publisher=ケンブリッジ大学出版|accessdate = 2013-09-05|ref=harv}}</ref>やアイゼンバーグがある<ref>{{cite journal|title =La actitud de Cervantes hacia sus antepasados judaicos|work=Cervantes y las religiones|year = 2005|url =https://web.archive.org/web/*/http://users.ipfw.edu/jehle/deisenbe/cervantes/Eisenberg-Jerusalen.pdf|ref=harv}}</ref>。ところが{{仮リンク|クラウディオ・サンチェス‐アルボルノス|en|Claudio Sánchez-Albornoz y Menduiña}}などはまったく受け入れていない<ref>{{cite book|title =Cervantes and His Postmodern Constituencies|first1=Anne J|last1=Cruz|first2=Carroll B|last2=Johnson|p=116|ref=harv}}</ref>。
セルバンテスは、[[イダルゴ]](下級貴族)の家の次男として[[1547年]][[9月29日]]にマドリード近郊の[[アルカラ・デ・エナーレス]]で生まれた。{{要出典|date=2015年9月|父は外科医であったため、セルバンテスは[[コンベルソ]]([[カトリック教会|カトリック]]に改宗した[[ユダヤ教徒]])ではないかという研究者もある。}}
 
少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、[[バリャドリード]]、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]、[[セビーリャ]]と各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。だが1564年ごろ、[[マドリード]]に転居したセルバンテスはルネサンスの[[人文主義者|人文学者]]ロペス・デ・オヨスに師事する。オヨスは[[1568年]]に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した<ref>『新訂増補 スペイン・ポルトガルを知る事典』 203頁(平凡社 新訂版2001年10月)</ref>。[[1569年]]に[[教皇庁]]の特使であったアックアヴィーヴァ[[枢機卿]]の従者として[[ローマ]]に渡り、[[ナポリ]]で[[スペイン海軍]]に入隊するまでの生い立ちについては、あまり解明されていない。この時期に、セルバンテスが[[決闘]]相手に傷を負わせた罪を告発する文書が残っているが、同名の別人かどうかは定かではない。