「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分

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==== 1421年の遠征と急死 ====
イングランド滞在から4ヶ月後の[[6月10日]]、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。これは南フランスに抵抗の拠点を移した王太子とアルマニャック派の勢力があなどれないからで、フランス駐在のイングランド軍の指揮官だった弟のクラレンス公が[[3月22日]]の{{仮リンク|[[ボージェの戦い|en|Battle of Baugé}}]]で討ち取られていたため報復の意味もあった。7月から8月にかけてヘンリー5世の軍は[[ドルー]]を制圧し、[[シャルトル]]で同盟軍を支援した。その年の10月には[[モー (フランス)|モー]]を包囲し、7ヶ月もの長期間包囲した末の翌1422年5月2日に攻略した({{仮リンク|モー包囲戦|en|Siege of Meaux}})。
 
ところが同年8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外の[[ヴァンセンヌの森]]で、モー包囲戦の際に感染していた[[赤痢]]で死亡した。34歳であった。わずか数か月前に、息子ヘンリー6世の名前で弟のベッドフォード公ジョンをフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱な義父シャルル6世よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きすることになった。