「細川ガラシャ」の版間の差分

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なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で[[前田利家]]の娘・[[春香院|千世]]もいたが、千世は姉・[[豪姫]]の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を[[勘当]]・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が[[大坂の陣]]で豊臣側に与する原因となった。
 
この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することはなかった<ref>[[田端泰子]]『細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ―』(ミネルヴァ書房、2010年)206-207頁</ref>。
 
==== 異説 ====