「徳田球一」の版間の差分
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|退任理由2 = [[レッドパージ]]により[[公職追放]]され失職
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'''徳田 球一'''(とくだ きゅういち、[[1894年]]([[明治]]27年)[[9月12日]] - [[1953年]]([[昭和]]28年)[[10月14日]])は、[[沖縄県]][[名護市]]出身の[[日本]]の[[政治運動家]]、[[革命家]]、[[弁護士]]、[[政治家]]。[[衆議院議員]](3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの[[日本共産党]]の代表的活動家で、戦後初代の[[日本共産党中央委員会幹部会委員長|書記長]]を務めた。'''徳球'''の愛称で知られる。
==経歴==
徳田は[[第二次世界大戦]]終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[10月10日]]に、[[府中刑務所]]を訪れた[[フランス]]人[[ジャーナリスト]]の[[ロベール・ギラン]]によって発見され出獄
[[1950年]](昭和25年)、[[徳田要請問題]]が発生し
==墓所・記念碑==
[[File:Tokuda Kyuichi's ashes.JPG|thumb|170px|1955年9月17日、徳田の遺骨とともに北京から[[羽田空港]]へ戻った[[志賀義雄]](左。右は徳田
[[File:Tokuda Kyuichi's comrades surround his portrait.JPG|thumb|230px|徳田の遺影を囲む共産党指導者ら(1955年8月)。<br >(前列左から、[[志田重男]]、[[野坂参三]]、[[紺野与次郎]]。後列左から、志賀義雄、[[宮本顕治]]、[[春日正一]])]]
墓は[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[多磨霊園]]、東京都[[港区 (東京都)|港区]][[青山霊園]]の「解放運動無名戦士墓」、[[千葉県]][[松戸市]][[八柱霊園]]の徳田家墓に分骨されている。多磨霊園の墓には[[毛沢東]]が徳田の死に際して贈った告別題詞である「永垂不朽」の字が刻まれ、墓碑銘の文字は[[周恩来]]が書いたものである。葬儀の際には「徳田球一同志永垂不朽」と毛沢東自身が揮毫した横断幕が中国側から贈られていたが、[[渡部富哉]]によると現在は行方不明になっている<ref name="watabe">[http://chikyuza.net/modules/news2/article.php?storyid=253 白鳥事件関係裁判資料の公開と真相をめぐって]ちきゅう座スタディルーム</ref>。これを含め、徳田の関係資料を日本共産党は廃棄処分とし、現在も所在が不明のものがほかにもある<ref name="watabe"/>。
徳田の出身地である
この他、[[八王子市]]の[[東京霊園]]には「革命英雄記念碑」があり、徳田の功績を讃えている。これは[[日本共産党(行動派)]]が独自に建てたものである。なお、徳田の妻、たつは後年日本共産党を除名され、日本共産党(行動派)に合流、同じく除名された[[渡辺政之輔]]の妻、[[丹野セツ]]と共に「[[徳田・渡政会]]」を結成、相談役となった。
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「獄中18年」という経歴から共産党支持者から[[英雄]]視され、親しみやすい人柄で「徳球(とっきゅう)」のニックネームがあった一方、党内で「オヤジ」「徳田[[天皇]]」と呼ばれるような家父長的(親分子分的)指導体制であったという批判もある。特に、文化運動では、娘婿の[[西沢隆二]]の方針を支持し、〈ダンス至上主義〉といわれるほど社交ダンスを運動のなかにもちこんだ(その実態は[[徳永直]]の小説、『静かなる山々』にも描かれている)。また、[[宮本百合子]]は、1949年に、小説家を軽んじる徳田の方針に対する意見書を提出している。ただし、北京への渡航後は国際派への妥協を主張した西沢と対立し、[[伊藤律]]の回想によると「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢にやわらかくほぐすよう助言させてきた。しかし、それはブルジョア思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂(参三)は同じ思想だ。彼を日本へ帰してしまおう」と絶縁を言明した<ref>伊藤律『伊藤律回想録 - 北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年、p20、23</ref>。しかし西沢の送還は実現しなかった。
[[吉田茂]]とは政治的立場において全く相容れないものがあったが、意外にも人間的にはウマが合う間柄だったようである。吉田
{{Quotation|共産党には第一次組閣の当初から悩まされ続けたが、最初の書記長だった徳田球一という人物に対しては、私はどういうわけか、余り強い反感を持たなかった。もちろん、徳田君は粗野無遠慮、私の組閣阻止のためにその一党を以って夜中官邸を囲み塀を乗り越えて侵入したり、宮中の大膳部へ暴徒を連れ込んだり、例の2.1ストの時などは最後まで頑強に抵抗を続け警察をてこずらせたり、(粗野、無遠慮で)厄介且つ怪しからぬ男ではあったけれど、他の共産主義者が、何となく嫌味で、悪辣で執拗であったに反して、悪感を抱かせるようなところは少なかった。むしろ稚気愛すべしとも思われた。
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