「芳賀景高」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2013年9月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 芳賀
| 時代 = [[室町時代]]後期
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[明応]]6年([[1497年]])
| 改名 = 景高→華陰道泰(法名)
| 別名 =
| 諡号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
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| 氏族 = [[芳賀氏]]
| 父母 = 父:[[芳賀高益]](養子説有り)
| 兄弟 = [[芳賀景高|景高]]、[[芳賀高孝|高孝]]、盛昌院殿般空妙栄([[壬生綱重]]
| 妻 =
| 子 = [[芳賀高勝|高勝]]、[[芳賀高経|高経]]
| 特記事項 =
}}
'''芳賀 景高'''(はが かげたか)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[武将]]。[[下野宇都宮氏]]の家臣。
== 出自 ==
[[芳賀氏]]は[[清原氏]]の後裔。[[下野国]]の有力武士団・清党の棟梁で[[益子氏]]の紀党と共に[[紀清両党]]と呼ばれる。景高は戦国期芳賀氏の祖であ
== 略歴 ==
景高は[[宇都宮成綱]]が家督を継承した際に単独で成綱を擁立し筆頭重臣としての地位を獲得する。また成綱や
景高は実質的なもう一人の当主として幼い主君の成綱を補佐し、優れた内政手腕で奉行人として活躍するだけでなく[[室町時代]]で没落していた宇都宮氏当主の権力強化にも大きく貢献した。
[[一向寺]]の諸公事を免除したり、当主の[[宇都宮成綱]]と連署で成高寺への寺領を寄進した。
[[明応]]6年([[1497年]])に没した。
== 脚注 ==
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[[Category:室町時代の人物]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:1497年没]]▼
[[Category:宇都宮成綱|将]]
[[Category:下野国の人物]]
[[Category:生年不明]]
▲[[Category:1497年没]]
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