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ダイハツに入社してから1年半後、[[1991年]]10月の全日本実業団選手権大会の女子[[10000メートル競走|10000m]]では33分19秒94で10位となり、チームの先輩だった[[浅利純子]](16位)よりも先着した<ref name="am">『[[陸上競技マガジン]]』1992年3月号、[[ベースボール・マガジン社]]</ref>。11月の神戸女子20kmロードでは浅利とゴールまで競り合い、敗れはしたがともに日本最高記録に近いタイムであった<ref name="am"/>。このように力を付けてきてはいたものの、その時点ではオリンピック代表候補として注目されるランナーではなかった。
 
[[1992年]]1月、バルセロナオリンピック女子マラソンの代表選考会であった[[大阪国際女子マラソン]]で初マラソンに挑戦したが、レース前小鴨自身は特に優勝争いも五輪も全く意識していなかったという。ところが、同マラソンの36km地点過ぎまで小鴨と浅利は先頭で併走し続け、その後浅利が脱落すると小鴨の完全独走状態となる。そして浅利と同じくバルセロナ五輪女子マラソン代表選出を狙っていた[[松野明美]](彼女も初マラソン)のレース後半の追い上げも退けて、いきなり優勝を果たした。大阪国際女子マラソンでは日本人初の優勝者、しかもゴールタイムの2時間26分26秒は当時の日本女子最高記録、さらに女子選手として初マラソン世界最高記録という快挙で、小鴨は20歳で一躍日本女子マラソン界のトップに立った。
 
初マラソンとはいえ、文句のない成績からバルセロナオリンピック・女子マラソン日本代表に選出された。それでも想定外ともいえる小鴨の代表選出は、のちに松野明美と[[有森裕子]]の代表争いの騒動を呼ぶきっかけともなった(結果有森が3番手で選出し松野は落選)。小鴨自身も「まさか自分がオリンピック代表選手になれるとは夢にも思わなかった」と、当時は嬉しさよりも戸惑いの方が大きかったという。また周囲からの期待が大きな[[プレッシャー]]となり、当時の小鴨は「バルセロナ五輪に出るのが怖くなった」と述懐していた。さらにその大阪国際女子マラソンのゴール直後には、当時のダイハツ・[[鈴木従道]]監督から「君は(浅利の)[[ペースメーカー (陸上競技)|ペースメーカー]]だったんだよ」と、暗に彼女の優勝は望んでいなかったようなことを言われたともされる。