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石虎の三男(夭逝を除くと次男)として生まれた。石虎は大趙(後趙)天王となると、石宣を[[河間市|河間]]公とした。最初の太子の[[石邃]]が父に処刑された後に、代わって太子として選ばれた。
石宣は贅沢三昧に暮らし、狩りを特に好んだ。狩りの時、行宮では四面から百里に
[[建武 (後趙)|建武]]14年(348年)、石宣は石虎が寵愛していた弟の[[石韜]]を殺害し、さらに石虎も殺そうと考えた。石虎は杜珠の病を口実に石宣を誘い出して捕らえ、顎に穴を受け、鉄環で繋いだ。[[仏図澄]]は「陛下が寛恕すれば、福祚が多いでしょう。惨殺すれば、
石宣の家族や臣下もみな
== 伝記資料 ==
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